第226回
2023年11月22日
課題図書：「闇の奥」ジョセフ・コンラッド著  黒原敏行 訳

貴方は真の闇を経験したことがあるだろうか。それは生き物のように身体にまとわりつき、声も生気も貴方から吸いとっていく。何の変哲もない周りの木々も足元の道さえも夜になるとその眼を開き、貴方を取り囲むように見つめている。懐中電灯の光は闇の奥をただ空しく照らしだすだけ…はるか昔、とある新潟の山奥での体験を思い出した。

今回の課題図書は『闇の奥』。ジョセフ・コンラッドの1899年の作品だ。コンラッドはポーランド領ウクライナで生まれ、幼くして母を亡くし、父は政治犯としてシベリアに追放され、自身も漂泊の人生を送った。船員の資格をとり、船乗りとしてフランスからイギリスへと移り住んで、ベルギー領コンゴで過ごした一時期がこの文学の母胎となっている。

舞台は19世紀末のロンドン、夕闇迫るテムズ河のほとり。五人の男が船上に佇む。そのひとりいまだ現役の老船乗りマーロウが「昔はこの辺りも暗闇だったんだ」と語ると「またマーロウの結末のない長話が始まった」と皆がちょっと気色ばむ雰囲気。次第に暗転。一変して若き日の船乗りマーロウが現れる。

彼が叔母の紹介でありついたのは、あるフランスの象牙交易の会社で、アフリカ奥地の支社に勤務するクルツという男を救出にいく仕事であった。彼は現地の人間に王のように君臨し、密林の奥から次々と象牙を供給する英雄であるとともに、会社にとってちょっと困った存在で、その「病」は深刻でありもう命が危ないという。マーロウはその河船の船長となるべく船出した。初めて見るアフリカの大地。それは地中海の対岸に見えていたのとは違い、断崖が屹立するアフリカの生の姿であり、その横腹に穴をあけたように流れ出るコンゴ河を時には歩いた方が速いような速度で遡上して、アフリカの胎内に入っていく旅でもあった。マーロウは密林の中、次第にクルツに会うことだけが目的になっていく、
ただクルツに会いに行くまでがすごい、というか長い！
「いつになったらクルツがでてくるのかじれったかった」「さらっと読めると思ったら案外時間がかかった」「面白いけれど何を言いたいのか今ひとつよくわからない」など、意外と苦戦したメンバーの感想が相次いだ。
けれどこれが後から効いてくるとも言える。密林の闇に光る無数の白い眼、それは全く異なる姿をした同じ人間の眼だ。森の奥から聞こえる太鼓のリズム、それは音楽ではない。退路を塞ぐかのように船を飲み込むジャングルの木々は『地球の長い午後』のような植物の静かな狂暴性を思い起こすし、「風の谷のナウシカ」の腐海を想像する方もいるだろう。途中、襲撃を受けたり、謎に満ちた本のアイテムなど今に何かが起こるという期待感がかきたてられる。そしてクルツの登場とともに船は一転、人間の心の「闇の奥」へと大きく舵を切っていく。

時代は帝国主義の渦中、産業革命から続く歴史は人々の暮しや知識を豊かにするとともに、利益や欲望や、そして人より良くありたいと争う「心の闇」をひとりひとりに開いていった。
この象牙は会社のものではあるが、本当は俺がとった、俺のものだと象牙に近づくものに対し、例え仲間であろうと銃口を向け、引き戻しても獣のように四つん這いで森の奥に逃げてしまう。欲望の虜になった姿、「そんな、狂っているじゃないか」といいながらもクルツに惹かれていくマーロウの恐ろしい光景が、この作品のもうひとつの読みどころだ。「怖しい、怖しい」と叫ぶクルツの断末魔を耳に残し、命からがら生還したマーロウは彼のフィアンセに会いに行く。そして、最後は貴女の名前を呼んだと嘘をつく。それに首を傾げるメンバーもいたけれど、それはこの世を守るためについた一瞬の優しい嘘だったと思いたい。
「真実を言うことは冥い、冥すぎる」とうずくまるクルツの姿が闇の中に消え、舞台は再びテムズ河の船上へ…そっか、これは劇中劇だったんだ。かつての『ねじの回転』の時のようにまた観衆にされてしまった…でも今度はちゃんと戻ってきたぞ、もとの場面に。

「引き潮を逃してしまったな…」と一人が呟く。また始まったよと辟易しながらも結局は話に引き込まれてしまった男たち、その姿は「読んで良かった」と口を揃えたメンバーの姿でもある。そして、この小説の真の語り手、第三の男がその姿を浮かび上がらせる。彼は物語中、ただ静かにマーロウを見つめ、今膝を抱えて苦悶するマーロウを見守っている。そして、「我々は何処に向かうのだろう」と暗い海の彼方に目をやり、その視線の先に今の私たちがいるのだ。「このマーロウという男の話を忘れてはいけない」という彼の言葉が現代の我々を包む闇に響くようなラストのシーン。

闇は悪の顔をしていない、むしろ正しいような装いを身にまとっている。それにとらわれた時、闇はにっこり笑ってぱっくりとその口を開き、更なる闇の奥へと人々を誘う。果たしてその闇の奥から、戻ってこられるのだろうか…。
ん？あの闇の先にかすかに見えるもの、あれは何だろう。出口なのか、さらに深い闇の奥が口を開けているのか、いくら目を凝らしてもまだ、よく見えない…。

ー文・Chiroー