2022年2月19日
第198回課題図書:「英国諜報員アシェンデン」サマセット・モーム著・金原瑞人訳
小学生の頃、スパイになりたかった。「スパイのななつどうぐ」を図解した本のページに胸を躍らせ、裏庭に「たからのちず」を埋め、脱脂綿をたっぷり頬に詰めて人相を変えたつもりになっていた――(1日そのままにしていたら、頬の内側の粘膜がかぶれてたいへんなことになった)。
そこで今回のテーマは、「スパイだった作家の本を読もう」。課題図書候補に挙げたフレデリック・フォーサイス、ジョン・ル・カレ、グレアム・グリーン、サマセット・モームの各作品にメンバーが投票。圧倒的得票数で「英国諜報員アシェンデン」が選ばれた。作者のサマセット・モームはあの「007」と同じMI6で諜報活動をしていた。第一世界大戦の頃だ。
主人公のアシェンデンも作家。ある人物にスカウトされて諜報員になる。「執筆活動のために」中立国スイスのホテルに長期逗留するが、その首都ジュネーブは「策謀の温床」だった。この地を皮切りに、アシェンデンがさまざまな都市で出会う人々やミッションが、連作短編形式で18編収録されている。
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メンバーの感想が知りたかった。だってこの作品には、派手な事件や猟奇的な殺人、痛快なアクションシーンなどないから(わたしはそこに惚れこんだのだけれど)、物足りないといわれそうだと思っていた。結果は、全員が「面白かった」。ミステリーの権威やファンタジー・SF博士、アジア文学にめっぽう詳しい猛者もいたが、この高評価。ポイントは「読みやすさ」・「面白さ」・「人物描写」の3つだ。
●読みやすさ;「あっという間に読めた」(T子さん)「『ヘアレス・メキシカン』のセリフを読むとき、脳内変換が起きてアクセントのおかしな外国人の日本語がきこえてきた」(R子ちゃん)
●面白さ:「意外な読後感(Y子さん)」「普通の人の二面性、そのぎりぎりのラインが絶妙(Mちゃん)」
●人物描写:「人物描写すごい」(Yちゃん)「翻訳小説特有の違和感がない」(Hくん)
R子ちゃんはその魅力を大好きな北欧ミステリーを引き合いに出し、「北欧ミステリーは炭酸のきついコーラ。モームはお茶のようにするする入る」とたとえた。新潮文庫で色違いの装丁ででている他のモーム作品いずれも読みやすく面白いことを考えると、これはひとえに翻訳者とモームの相性が良いから? という分析に発展。ふだん翻訳小説にアレルギー反応を示しがちなHくんもこれには大きくうなずいた(やった!)。
また、Yちゃんの「面白かった。なのに、あとから内容が思い出せない」という素直な告白には、数人が賛同した。夢中で読んだのに、ストーリーが記憶に残らないのはなぜか。この問いには、「体験している間は楽しいのが最重要で、あとは忘れてもいい。それが(読書に限らず)エンターテイメントの極意」という一応の帰結を得た。記憶力に自信を無くしかけていた一同、ほっと胸をなでおろした。
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わたし自身は本作品を読むのは二度目だ(やはり内容は忘れていた)。今回は地図をみながらストーリーを追った。「レマン湖」がどのようにフランスとスイスの国境に接しているかがわかると、ターゲットをフランス領におびきだそうとする諜報部の緊迫感、命か愛か選択を迫られる男女の心の葛藤がより胸に迫る。また、新訳版(同じく金原瑞人先生訳の)『人間の絆』も読んだばかりだったから、稀代の悪女「ミルドレッド」の分身のような女たちのあばずれぶりにしびれた。「ファムファタール(運命の女性)」と呼ぶにはあまりにも浅はかで救いようのない女を、どうしてこんなにいきいきと描けるのか。そしてなぜ、登場人物にこれほどドライでクールな台詞をいわせられるのか。スパイとは「任務を立派に果たしても、だれからも感謝されることはないし、トラブルに巻き込まれても、誰も助けてくれない」。そんな孤高のみちゆきにちりばめられた人間模様をここまで絶妙な距離感で描けるなんて、どれほどの経験をしたのか。
モームの作品を読破するほかに、モームその人の謎めいた生涯を探る楽しみもみつけてしまった。だからといって、これからわたしもスパイになれるわけでは、ないのだけれど。
─ 文・安納 令奈 ─