2023年9月

第223回
2023年9月13日
課題図書:「人間の証明」森村誠一

観測史上最も暑かった、2023年夏。
その夏に、日本を代表する推理小説作家、森村誠一が90年の生涯を閉じた。
その訃報をきいたとき、頭にリフレインしたのは、西条八十の詩「ぼくの帽子」の冒頭部分。

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

ある世代以上の方ならご存知だろう。
松田優作の朗読とジョー・山中の主題歌で当時の人々に鮮烈な印象を残したTVCMだ。
この、1970年代の映画『人間の証明』の原作が今回の課題図書。

物語は、都心の高層ホテルのエレベーターが最上階に到着したときに黒人の青年が血を流して倒れ、亡くなったところから始まる。
ニューヨークからきたこの青年ジョニーがこときれる前に呟いた
「ストウハ」ということば。
もうひとつ、彼が持ち歩いていたぼろぼろの西条八十詩集を手がかりに、
麹町署の刑事たちの犯人探しが始まる。
捜査範囲は群馬県、新潟県、マンハッタンにも及び、ジョニーの出自が明らかに
なっていく。

今回の読書会参加メンバーは、映画公開当時を知る世代のほうが多かったが、
若いメンバーにも「展開が気になり一気に読めた」と好反応。反面、途中の伏線、登場人物の相関関係が最後にはきっちり回収されている点を「ご都合主義」と指摘する声もあった。それを差し引いても、ホテルマンから作家に転身して数作目で読者を物語に引きこむこの筆致はすごい、という意見は一致した。

なにぶん、今から約半世紀前の作品。現代では受け入れられないジェンダー格差や、男性サラリーマン向け週刊誌の男性読者を意識したのだろうか、男性の目からみた女性の描き方に抵抗がある、というところで議論は盛り上がった。自然の情景など、心洗われる美しい描写がある一方で、男性の妄想、獣性の描き方がその抒情性に水を差していたのは否めない。推理小説は男性読者ウケするように描く――それが時代の要請だったのかもしれない。

戦後の昭和は体裁を気にする窮屈な社会だったことにも気づかされた。女性はその窮屈さと時間をかけて闘い、行動の自由度も確保したのに、男性側からみたジェンダーギャップはまだ、昭和からさほど変わっていない、LGBTQなどに代表される多様性の受容度も男性のほうが遅れている、という厳しい意見もでた。

森村誠一は推理作家への登竜門第15回『江戸川乱歩賞』を『高層の死角』で1969年に受賞。同賞からはその後、桐野夏生(第39回)、池井戸潤(第44回)といった人気作家も続々輩出している。令和に入っても、時代の香りをまとった新しい作品を書く気鋭の作家が次々に現れ、日本の推理小説は世相を反映した生き物のようにこれからも変貌を遂げていくのだろう。

吉祥寺を「ジョウジ」、新宿を「ジュク」、喫茶店を「サテン」、モダンジャズを「ダンモ」なんて呼んでいた、ちょっと恥ずかしい昔の写真のような昭和のノスタルジアを味わいたかったら、森村誠一作品、他にも楽しめるものに出会えるかもしれない。

森村氏のご冥福をお祈りする。

ー 文・安納 令奈 ー