2020年11月8日
第176回課題図書:「活きる」 余華
かなり昔に、張詒謀(チャン・イーモウ)監督の「活きる」という映画を見た。 この時代の非情で理不尽な世界観、人々の高揚感とノスタルジックな映像美、主人公を演じた葛優(グォ・ヨウ)のロクデナシ感、その妻、家珍を演じた鞏俐(コン・リー)の美しさは、いまだに脳裏に焼き付いている。しかしこの作品の原作「活きる(活着)」を私は読んだことが無かった。映画と小説は内容が少々異なる。物語は田舎へ民間歌謡を採集しに来ているぼくが、見事な歌を歌いながら畑を耕す老人に出会あい、彼の話す波乱万丈な身の上話に、いつしかすっかり夢中になっていた―というものだった。
老人の名前はフーグイ(福貴)、若いころは飲む打つ買うの三拍子がそろった、どうしようもないダメ人間。ついに博打で全財産を全て巻き上げられ、金持ちの若旦那から、貧農へと落ちぶれてしまう。父親はショックで亡くなり、妻は実家に連れ戻され、纏足の高齢の母と、幼い娘だけが残った。貧乏になってからは、彼は憑き物が落ちたかのように畑で汗水たらして働くようになる。やがて妻が戻り、家族が増え、明るい光が見え始めるが、時代のうねりが容赦なく彼らを呑み込んでいく―。
さて赤メガネのメンバーの感想は、「今回のは、面白くて読みやすかった」「フーグイの話を聞く「ぼく」という第三者目線を取り入れ、共感しやすい構成になっているのがうまい」という好感度高めの声が多かった。また「フーグイの素行の悪さに本を閉じた」「彼の子供の叱り方にイライラしてしまった」という意見もあった。私は少し焦っていた。ちょっと小難しい本を選んだつもりが、日本語訳がとても自然で読みやすかったのだ(読み難いのがいいとも思わないが…小難しいほうが、話が盛り上がる傾向にある)そしてなによりも、中国では未だにタブーである話題をここまであっけらかんと描いているという事にも衝撃を受けた。作中の出来事と中国の政治的背景を重ねあわせてみると、
1940年代(日中戦争・国共内戦:中国国民党と中国共産党の戦い)フーグイは町に医者を呼びに行く途中で、国民党の兵隊狩りに遭い、戦地へ連れていかれる。家に帰れたのはなんと2年後。母親はすでに亡くなっており、お喋りな一人娘も病により口がきけなくなっていた。
1950年代(大躍進政策:毛沢東指導の下、列強国に対抗するため農工業大増産政策が採られる)村には人民公社の食堂ができる。息子が可愛がっていた羊や、家の鍋など生活のあらゆる鉄製品が没収。村人たちは製鉄作りに励むが、作り方を知らないので粗悪品ばかりになってしまう。やがて人々のモチベーションや生産性が悪化、その日食べるものにも事欠く生活をおくる。無理が祟り、妻の家珍の持病が悪化、一人息子は医療ミスにより死亡。実際この間、中国では4500万人近い死者が出たとされている。
1960年代(文化大革命:名目は、資本主義文化を批判、新しい社会主義文化を作ろう)戦地を共に生き抜き、県知事となっていた春生や、面倒見の良い隊長が紅衛兵(毛沢東主義を掲げる人々)に連れていかれ、集団リンチを受ける。知識階級や、資産家などがその対象とされ、弾圧、拷問により、数千万人が亡くなったと言われている。そして幸せな結婚生活を送っていた娘も難産により病院で満足な治療も受けることなく亡くなってしまう。著者はこの時代に産まれた。
赤メガネのメンバーからは
「貧しくても、楽しく暮らせればいい、というお母さんの言葉が印象的」
「娘夫婦のやり取りが微笑ましかった」「奥さんが健気すぎる、自分ではこんな事はできない」
「彼の心の中には今も亡くなった家族が存在していて、共に生きている感じがする。」
「家族を養い、幸せに、健康にしてやりたいという思いが叶わない、涙が止まらなかった」
「塞翁が馬、邯鄲の夢のごとし、という言葉を思い出した」
いくつもの死線を潜り抜けてきたフーグイ、しかしこの小説から悲壮感は感じられなかった。自分に降りかかる全ての出来事を受け止め、今日も老いた牛と共に朗々と歌い、亡くなった家族の名を呼びながら、その土地を耕し続ける。フーグイのように逞しく活きている人々が、きっと中国にはたくさんいるのだろう。
─ 文・ ハセガワ ─
2020年11月28日
第177回課題図書:「砂の女」 安部公房
安部公房は、いつかは読みたいと思っていた。作品そのものへの興味もさることながら、それ以上に安部公房という人物に興味をもっていたからだ。もう少し長生きしていれば確実にノーベル文学賞をとっていただろうとか、学生時代に数学の天才と言われていたとか、徴兵を免れるために東大医学部に入ったとか、クルマ好きだったとか、女優山口果林と愛人関係にあったとか・・・。クルマ好き以外は普通の人間ではそうそうできないことばかり。有り体に言えば天才肌である。さてどの作品を選ぼうか。芥川賞を受賞し出世作となった「壁」は第15回の課題図書になっている。となれば「箱男」か「砂の女」か。評価の高い「箱男」にも惹かれたが、ここはやはり代表作である「砂の女」だろうと。映画化されているだけでなく、20カ国語以上に翻訳された作品であることも興味をひいた理由だ。
教師をしている主人公が休暇を取って趣味の昆虫採集のため砂丘へと出かける。日が暮れ最終バスを逃し途方に暮れていたところ、村の住民から勧められ民家に泊まることにした。縄ばしごを使い深い砂の穴の底に下りていくと、そこには女がいた。毎日押し寄せる大量の砂を集めて運び出さなければ集落全体が崩れてしまうため、女は食料や水などの生活必需品と引き換えに1人で砂を掻きながら暮らしていた。翌朝民家を出ようとすると縄ばしごが外されていて、男は自分が監禁状態になったことを知る。村はより大量の砂掻きができるよう男手を求めていたのだ。そうして女と同居しながらの砂掻き生活が始まる。途中脱走を試みるも失敗に終わり、男は やがて女と肉体関係をもつ。女が妊娠し、子宮外妊娠のため病院へと運ばれていったが、気付くと縄ばしごは残されていた。しかし男は村を去ることをせず、村の一員として生きていくことを選んだのだった。
プロットはシンプルであり、「面白くて読みやすかったのにびっくり(靖子)」だし、「多くのメタファーを含みながらも巧みな文章でシンプルに表現した素晴らしき作品。さすがノーベル賞候補(ヒロシ)」だと思う。注目すべきは、残された縄ばしごを目の当たりにしつつ、なぜ男が村に留まることを選んだのかという点だろう。
「男は実は自由を求めてなかったのでは? むしろ”あの女”に自尊心を傷つけられていたなか、従順な砂の女は男の自尊心を満たしてくれた。溜水装置の発明も男の自尊心を刺激した。つまり自由より自尊心がポイントだったのでは?(シゲ)」。たしかに。元いた場所に帰っても毎日同じ生活の繰り返しが待っているという意味は砂掻きも同じこと。であるなら自尊心=必要とされてる感をより実感できる砂の家に留まることを選んだのは不思議なことではないとも思える。とはいえ「でもやっぱり閉じ込められるのは嫌だな(シゲ)」という意見が僕には真っ当に思えたし、みんなそうだよね?とも思っていたのだが、意外なことに違う意見も。「そのときによる(ヒロシ)」 たとえば砂の女が絶世の美女だったら戻らないってことでしょうか?(笑) そんななか強い説得力を感じたのが靖子さんの意見。「私も教員だったので主人公の気持ちはよくわかる。これから希望を持って社会に漕ぎ出していく生徒たちに対し、自分はいつまでたっても同じままという嫉妬。加えて職員室ほど保守的な職場はない。個性を出しちゃいけない閉塞感の塊です。そんな職場に戻るぐらいなら私は砂の家に戻ります。必要とされる感覚が必要だから。」
なるほど、必要とされる感覚というものは、僕が思っていた以上に生きる上で大切なものなのかも知れない。「主人公はアイデンティティを探してた(知子)」。「必要とされたいという気持ちがなければ楽しみもない(ゆめ)」。
男は助けを呼ぶ手紙を外部に届けるためカラスを捕まえる罠を作り「希望」と名付けた。後にそれが溜水装置の発明へとつながった。ここで暗示されているのは、逃げ出すことの希望から砂の家で暮らすことへと、男の「希望」が変わっていったことだろう。その変化どどう受け止めるか。安部公房はそれを読み手に委ねた。おそらく正解はない。だが人の営みとは常に「正解はひとつじゃない」が正解なのだ。「コロナ禍にいる私たちも砂の中にいるのかも。そういう意味で、どんな時代にもどんな人にも当てはまる普遍的な作品だと思う。だからこそ世界文学にもなったし、話せば話すほどいろいろなことが見えてくる、読書会にとても向いている作品だと思いました(牧)」。
─文・岡崎 五朗 ─