2018年2月2日
課題図書:「田園の憂鬱」佐藤春夫
今回の課題図書の著者は佐藤春夫(1892−1964)。
谷崎潤一郎との間に起こった、“細君譲渡事件”で知っている人もいると思いますが、
彼の作品となると、同じ世代の文豪と比べると昨今は、読まれる機会は少ないように感じます。
比較的大きな書店でも、「買うのに苦労した。」なんてメンバーもいました。
さて、第131回目の赤メガネの会では彼の作家生活のなかの初期、
1919年に発表した『田園の憂鬱』について皆で語り合いました。
『田園の憂鬱』は、著者が都会の生活に疲れ、当時の内縁の妻と犬、猫を連れ、
今の横浜市青葉区鉄町に移住した様子を描いた私小説の形を取っています。
しかし、良くなるどころかさらに病状を悪化させていく様が美しく叙情的な文章により描かれています。
前回の課題図書カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』同様に、読むのに苦労してなかなか進まなかった人と、
苦労したわけではないが、スラスラとまでいかない人に分かれました。
つまり、ワクワクしながら読み進められたメンバーは皆無でした。
「憂鬱という感情がそもそもわからない」
「特にドラマティックな展開があるわけではない」
「病まないためには動けば良いのに」
「病気の描写が少しおとなしめなのでは?」
「詩人なので病的な表現も美しい」
「主人公が男性的魅力に欠ける」
という女性メンバーからの辛辣な意見も。
「この小説はサイケデリックのはしりなのでは?」
「西洋の芸術のシンボルの薔薇(そうび)を効果的に使い、自己の病状ですら芸術に昇華しようとする姿が美しい」
「やらなくてはいけないことはわかっているんだけど、何も動かずに状況を悪化させていくことはわかる」
との男性メンバーの意見も。
いつもの会と同様に、様々に、そして活発に意見を交換させました。
今回取り上げたもののような“芸術度”が高い作品の場合「書いてあることがよくわからない」と感じることは多々あると思います。
読書経験のかなりある人でも、読み進めるのに苦労するポイントのようです。
しかし「わからない」それは悪いことなのでしょうか?
「わからない」から面白くない作品なのでしょうか?
「わからない」それは逆に素晴らしいことではないでしょうか?
今回のように、多種多様な意見が飛び交い「わからない」ことで、他人の意見にも耳を傾け真剣になれるのですから。
会も最後になった時にメンバーの一人が『田園の憂鬱』を「面白かった」と評したことに読書、この赤メガネの会の真髄を感じられたように思います。
それは様々なジャンル、自分の不得意な分野の本をも読むことで“許容力”が養われること。
そして多種多様な意見に触れることによって、作品を、自分とは違う視点で、もう一度見つめ直すことができること。
今宵も良い会だったと満足し、メンバーの何人かは夜の街へと「それぞれの憂鬱」を解消するために、消えて行きました。
2018年2月23日
課題図書:「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ著 岡田朝雄訳
『シッダールタ』(ヘルマン・ヘッセ著 岡田朝雄訳 2014 草思社文庫 )
滅多に勝ったことのないじゃんけんに勝って回ってきた「開催レポート」。
かれこれ幾多の原稿が重なるなか「もっと苦行を!」という、これも天のさい配か~と心中叫びながら筆をとらせていただきました。
今回の課題図書はヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』(1922年)。巻末の解説によると、
ヘッセが第一次世界大戦の戦時奉仕の仕事を終え、単身スイスに住んで作家としての再起を図った第三作目の作品です。
1920年に第一部を執筆後スランプに陥り、禁欲、断食、瞑想などの難行苦行を重ねた末、ようやく完成したと記されています。
アメリカの作家ヘンリー・ミラーをして、<世に知られている仏陀を凌駕するひとりの仏陀を創り出した>と言わしめた小説にメンバーからは、
「海外文学は苦手だけど面白かった。舞台は古いが、今に通ずるものがある」
「インドのことをドイツの人がどう書くのかと思ったけれど、よみやすかった。」
「シッダールタの言っていることを納得しながら読むことができた」
「沁みた。電車の中で読んで、降りたら違う人になったような気がした」
など次々と絶賛の声が上がりました。
しかしその一方で、
「シッダールタは仏陀じゃなかったのか」
「釈迦が、聖人になって人助けをする話かと思ったら違った…」
という感想をもったメンバーも。
そして話題は、キリスト教と仏教の違いや
「ありのままでいいというけど、未来へ向かって、何か目標に向かって進歩していかなければ生まれてきた意味ってあるのか?」等の人生論にもおよび、
次第に議論は深まっていったのです。
物語では将来を嘱望された若きバラモン僧シッダールタが、自身の悟りに満足できずに沙門の世界へ身を投じ、
世尊仏陀とも決別し、美女と商人のもとで豪奢な生活に溺れた末、落ちるところまで落ちてたどり着いた河のほとりで、
ある渡し守と出会い、共に暮らしながら魂を再生していきます
この作品の眼目は何といっても「河の流れ」。絶えず同じように流れているが、水面の輝きや音はひとつとして同じでなく、
やがて大海から天に昇り、雨となって大地に注ぎ、再び河となって流れてくる永遠の果てしない繰り返しです。
読書会が盛り上がるなか、ふと、以前にターシャ・テューダーに関する本を読んでいたときに目にした
「時は流れ去るものではなく、降りつもるものだ」という文章を思い出しました。
子供だったあの頃の自分も、どうしようもなかったその頃の自分も過去ではなく、
みんな自分のすぐそばに仲良くならんでいる、近頃そんな気持ちになることが時どきあるように思います。
意見が出尽くしたところで、「印象に残ったところは?」とメンバーに聞いてみました。
「シッダールタが酒池肉林の世界に溺れていくところ」(多数の男性陣)
「仏陀のシッダールタと主人公のシッダールタが出会う場面」
「酒池肉林の虚しい世界から脱して河の声を聞くところ」
「<言葉で表現すると表現したいと思うことは何でも、少し違ったものになる>というシッダールタのひとこと」等々、
わかったことも、よくわからなかったことも、ひとりひとりが各自の胸にこの物語をしっかりと刻んだようでした。
読書会を終えて、外にでると夜気の中にかすかな春の気配がして、そろそろ河津桜の咲くころ、夜風がどこからかその香りを運んでいるようでした。
≪わかったことはそのままでもいい、だけどわからなかったことはどこかにメモしてわすれないように大切にしなさい≫と
昔、誰かに言われた言葉が浮かんできました。誰だったかなぁ…思い出せない、
でも読書会に来なかったら思いだすこともなかったよね…と思いつつ、
「ではまた次回」とメンバー同士、再会を笑顔で約束して別れていったのでした。