2021年2月

2021年2月21日
第181回課題図書:「芙蓉の人」新田次郎

「パソコンやインターネットがない時代にどうやってやったのかと思うよ。あれは明治の力だなあ」。明治29(1896)年に刊行が始まった官撰百科事典『古事類苑』をめぐる会話である。古代から1867年までのさまざまな文献を渉猟し、日本史研究の基本基礎資料を作成する一大編纂事業だ。「明治の力」か…いい言葉だな。20年も前の図書館事務室の歓談を思い返した。

今回の課題図書は新田次郎氏の『芙蓉の人』。1971年の作品だ。物語は、明治28(1895)年2月東京、道灌山から眺める富士の眺望に始まる。

「ね、園子。富士山よ。お父さまが今登っている富士山よ」。

この時、野中到28才、妻千代子24才。

「天気は高いところから変わっていくだろう。富士山は3776mある。その頂に気象観測所を設置して、気象観測をつづければ、天気予報は必ず当たるようになる。だが、国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てることはできない。」

だから到は、私財をなげうって観測小屋を設置し、厳冬期の富士山頂で気象観測ができることを実証するという。そうすれば夫は必ず死ぬであろう。そう判断した千代子は夫を支え、共に気象観測をするために富士山頂へと後を追った。襲いかかる霧氷、吹き込む風雪、高山病と栄養失調にかかり、自分が死んだらあの水桶に入れて、春になったら山からおろしてくれとお互いに願った。その壮絶な顚末はすこしおくとして、今回の読書会で盛り上がったもう一つのテーマについて触れたい。

この作品には明治という時代背景から、現代では女性への差別的表現ととられる箇所が随所にある。折しもオリンピック委員会の「女性が会議にいると」発言と重なり、ジェンダーをめぐるオブジェクションが展開した。「読むのがつらい」「作品として好まない」「まず世間体を気にするところに違和感」等々。「千代子は古いか、進取の人か」という二者択一では、「その時代では新しいかも知れないけど、やっぱり古い」派を含めると「古い」が多数を占めた。

うーん、なるほど…でもほんとにそう言いきれるだろうか。

私なら(あなたなら)、どうしただろうか。

新田次郎氏が生まれたのは明治45(1912)年。大半を明治人に囲まれて育った。「姑があって初めて嫁が成り立つ」とする到の母のような考え方が主流で、「千代子は到の嫁だよ」という舅の意見はまだ少数派だったかもしれない。作者は千代子との面識はなかったけれど、彼女の『芙蓉日記』を読みこみ、その人物像を作りあげている。「いいえそうではありません、お姑さま」と言葉にはしないが、冷たいほどの美しさをたたえた眼差しを返す描写は印象的だ。本作が出版された昭和46(1971)年は大阪万博の翌年、ようやく好景気の実感が庶民の生活にも及んできた時代だとしても、まだまだ女性の社会的地位は低かった。夫を支え、社会に挑んだ千代子の言動と行動力は、この小説を読んだ世の中の女性を勇気づけたのではないだろうか。

そして『芙蓉の人』には、他にもちょっとした「しかけ」がある。

本文の要所要所に千代子の『芙蓉日記』の一節や書簡、到の記事の抜粋などが、まるで床の間におかれた生け花のような美しさで挿入されている。明治の文語体だから硬くて読みにくいけれど、「それが何かいい」と感じたメンバーがいた。

また、小説のラストには野中夫婦のその後が記されている。それには夫妻がそのあとも志を失わず、富士山頂の東安(ひがしやす)という地に私設の気象観測所を設け、国に寄附しようと計画していたこと、いよいよ決行という時にインフルエンザが流行し、同志である千代子夫人が死んでしまったこと、昭和7(1932)年、同じ場所に国立の気象観測所が設立され、通年の気象観測が開始したが、それはもう野中到の仕事ではなかったことが綴られている。その富士気象観測所に昭和12(1937)年まで、気象庁職員として若き日の新田次郎氏が勤務していた。このメインストーリーと末尾の後日談の対比が良かったと述べるメンバーもいた。私もこの下りがあるからこそ、野中夫妻が現代の私たちとつながっていると感じている。

人とは歴史そのものなのかもしれない。歴史を振り返ることは時に痛みを伴うけれど、本はその勇気を与え、私たちの背中をそっと押してくれるような気がする。 …千代子さん、私も貴方の立場だったら同じことをしたと思います。ただ、あれほど壮絶な体験をしたら、『芙蓉日記』などと優雅な名前を付けられたかどうか。もっとすさまじい名前にしてしまったかもしれません。今も白く美しく輝く富士山一名「芙蓉峰」を望みながら、やはりあなたはすごかったと静かに脱帽いたしております。

─ 文・Chiro ─