2019年5月

2019年5月17日
課題図書:「美しい星」三島由紀夫
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三島由紀夫、1962年(昭和37年)の小説。
 飯能市に住む平凡な4人家族・大杉家のメンバーは、ある日突然、自分たちが宇宙人であると次々に自覚する。一家の父・重一郎は、東西冷戦による核開発競争からくる地球人類の危機を憂う。重一郎は家族の協力を得て、人類を救うための講演会を開き、徐々に名声を上げていく。
 一方、仙台に住む羽黒助教授とその取り巻きも自分たちが宇宙人であるという自覚を持っていた。彼らは、地球人類を滅亡させることこそが人類を苦しみから解放する救いであると考える。
 そして重一郎と羽黒は対峙し、二人はそれぞれの『人類愛』思想を激しくぶつけ合う。対決のあと、重一郎は体調を崩して倒れこみ、不治の病であることがわかる。
 物語のラスト、大杉一家は重一郎を病院から連れ出し、川崎市の丘へ行く。ほうぼうの体で丘の稜線にたどり着いた重一郎の目に映ったものは、緑と橙の光をかわるがわる放つ銀灰色の円盤だった。

 文庫版背表紙のあらすじにある通り、作者が抱く人類への不安をSF作品に仮託してアレゴリカルに描いた今回の作品。メンバーはどんな感想を持ったのだろうか。

・一家が宇宙人であるという自覚を持ったことを描いた前半は、妄想家族のコメディのようにも見えた。しかし、終盤の重一郎と羽黒のシリアスな対決から、最後には重一郎が円盤を見てしまい、本当にSFモノなのかと読者に考えさせる。この「コメディ―シリアス―SF?」という構造はとてもスリリングだった。
・何てことはないものにも、こんな表現の仕方をするのだと、作者の文章に引き込まれた。
・作者が抱く人類への思想だけではなく、美へのこだわりが感じられた。
・仙台の3人組が人間のダメなところをよく表していると思う。

 作品の内容にとどまらず、三島の文体そのものに感動したメンバーも多かった。

 話題は宇宙人について広がっていく。そもそも、作品に登場する自称宇宙人たちは本当に宇宙人なのだろうか。それとも、妄想にとり憑かれているだけなのだろうか。メンバーの間では、3:7ほどの割合で、本当に宇宙人だという意見が多かった。
・一家の宇宙人は妄想で、最後に重一郎が見た円盤は、一家心中の比喩ではないか。
・本当に宇宙人であるほうが、地球を俯瞰的に見るという話に説得力が出る。

 意見は様々だったが、最終的には「どちらでも物語に影響はない」とまとまった。地球人類を客観視する立場にあれば、宇宙人でも神様でも動物たちでも、描かれる内容は同じだろう。

 最後に、メンバーと平和について意見を出しあった。第九章の冒頭で、羽黒と対峙する重一郎は人類の平和について、実に4ページにもわたって語るシーンがあるからだ。曰く、交戦状態にない平和な状態でなお平和を願うというのは、現存する平和に不安があるからだ、と。

・重一郎のいう「事後の平和、克ち取られた直後の平和、戦いの後の平和」という表現はわかりやすかった。比較がないと平和は認識できない。本当の平和というのは達成できないものなのかもしれない。
・戦争がない状態が平和とは限らないのではないか。
・世界は平和でも、個人では平和ではないこともある。突き詰めると、平穏や幸福と同じ考え方になってしまい難しい。
・平和と貧困などの問題はまた別次元の話と考える。

 自由図書を紹介するコーナーでは、「AIがいずれ人類を脅かす」「人類は環境問題を軽視してきた」という内容の本を紹介する人がいた。「美しい星」が書かれて半世紀以上が経ち、東西冷戦が終結した現代でも、平和を願う声や人類への警鐘は形を変えて繰り返される。

 平和がどういうものなのかを簡単にとらえることはできない。まして、それを実現するとなれば、雲をつかむような話になる。人類に課された大きな問題を考え直すきっかけを与えてくれる本だった。
 永遠平和のために、我々地球人は何をするべきだろうか。

 余談ではあるが、今回集まった9人のうち、何と2人ものメンバーが、知り合いから自分は宇宙人であるとカミングアウトされた経験があるという。自称宇宙人の彼らが「美しい星」を読んだことがあるのかどうか今となってはわからないが、宇宙は地球人類が思っているよりもずっとせまいのかもしれない。

 今度あなたの隣に引っ越してきた人、実は宇宙人かもよ。

― 文・なおや ―