2020年12月

2020年12月20日
第177回課題図書:「エヴゲーニイ・オネーギン」アレクサンドル・プーシキン

「味わう」という隠喩的な表現が、しばしば見られるように、読書は食事に通じるものがある。まぁこんな事言い出したら、何でもそうなっちゃうんだろうけど、どちらも本質的には極々個人的な行為ってことだ。「面白い!」とか「美味しい!」とかが主観的感想に過ぎない、という意味以上に、同じものを吸収するにあたって、どちらも個々人の消化能力や理解能力に依存するあたりがとても近いと思う。本だって深く味わう為には、咀嚼能力が問われる訳ですよ。
 さて「オネーギン」の歯応えはどうか?200年前のロシア料理は美味しそうに見えないんだよなー、それに韻文小説?んなもん食った事ないわ。なんて予断に囚われていた。ましてや地主・有産階級の恋バナなんぞ、ルサンチマンしか感じられん。とりあえず残さず食べましたが、あまり美味しくありませんでした。以上

……で、終わらないのが赤メガネの良いところ。メンバーの好意的な意見に触発され、自分の「よく噛んでないんじゃないか?疑惑」が深まった為、この短い小説をもう一回読んだ上でレポートします。上品な料理は皿がデカいだけで、量はそんなに多くないのよね。

 作者アレクサンドル・プーシキンは『ロシア文学の父』として衆目が一致する。ドストエフスキーやツルゲーネフは、彼の偉大さについて講演をしている。本作『エヴゲーニイ・オネーギン』は、近代ロシア語の礎となり、またロシア文学の典型的な人物像を生み出したとのことで、岩波文庫は表紙に『金字塔』とまで書いちゃってる。つまり『ロシア文学の父が書いた金字塔』が今回の課題図書って事になるわけね。

 端的に言うと、もう一度よく味わって読んだら意外に面白かったんだけど、メンバー共通の意見として言われた「序盤が読みにくく、読み進むにつれて面白くなった」のには理由があるんじゃないかと思う。第1章『ふさぎの虫』、第2章『詩人』では、登場人物の紹介に費やされる。しかも、主人公オネーギンの(親友という程ではない)友人兼語り部たる「わたし」の個人的な趣味や主張のボリュームが多いくらい。脚フェチであることを延々と開陳したり、読み返したら矛盾だらけだったけど訂正しないよ、って派手に言い訳したり。。「なんじゃこりゃ?」って思うよね。

 第3章『令嬢』から俄然面白くなる。登場人物が会話を始めるのがこの章から、っていうのもあると思うけど、小説のストーリーは実質的にこの章から始まる。簡単に言うと、オネーギンの親友である詩人レンスキイが、幼い頃から好きであった隣家ラーリン家の奔放な次女オリガと、事実上の許婚者として青春を謳歌する。オリガの姉タチヤーナは、主人公オネーギンに豁然として自身の恋心を覚る。繊細な彼女の大胆な手紙こそが、この小説の嚆矢なんだと思う。
 しかし、出版当時に巷間「ドン・ジュアン的」とも評されたオネーギンは特定の女性に縛られる事を嫌い、またおそらく田舎の良家の息女に魅力を感じなかった事で、誠実さをもって断る。その後オネーギンはレンスキイに誘われ出席したタチヤーナの『名の日の祝い』で、俗悪な列席者に鬱屈とした気持ちを募らせ、その意趣返しとしてオリガをダンスに誘う。許婚者にちょっかい出されたら、上流階級の流儀として決闘を挑むレンスキイ。悩みながらも名誉を重んじ、決闘を受けるオネーギン。レンスキイは倒れ、親友を殺した事実が重くのしかかるオネーギンは田舎の寓居を引き払い、モスクワへ行く。
 最終章で、公爵夫人となったタチヤーナと再会したオネーギンは、逆に彼女に夢中になってしまい、痩せ衰えるほど思いを募らせるのだが、タチヤーナは貞淑な妻としてそのまま夫に操を立てる事を選ぶ。オネーギンの手紙にタチヤーナが口頭で断るという、かつてとは立場を反対にした対称構造。そして二人で会話している部屋に、タチヤーナの夫が拍車の音を響かせて入ってくる。そのシーンで暗転し物語は突然幕を下ろす。

 メンバーの感想として19世紀のロシアの情景がよくわかったという声が多かった。領主や地主と小作農がそれぞれ生活し、モスクワが憧れの地だったり、フランス文化がロシアの上流階級で模範とされていた事など。なにより決闘しちゃう風習とかね。皮肉な事に作者プーシキンは後にレンスキイと同じ目に遭う事になってしまう。

 主人公オネーギンの振る舞いについては、メンバーの意見は思いの外好意的なものが多かった。未熟な子どものようだと、寛容な目線をもって受け入れていた。最初に断る時も後年恋に身をやつすところも誠実であるという。もちろん受け入れられないという意見もあったけどね。ロシア文学は思い詰めて考えるから暗いのだけど、心の移り変わりを楽しんだとの声もあった。

 僕自身は『オネーギン』は食わず嫌いもあるけど、やはり散文訳ではなくソネットとして読まないと解らない、と言ったメンバーの意見に賛成だ。ただ主人公オネーギンには2回目を読んで少し評価が変わった。というのも当時のロシアの時代精神を理解する事で、彼の鬱屈とした心情や苛立ちみたいなモノに近づけた気がするから。同じメンバーが彼を不憫だと評していたのだけど、まさにそんな感じ。
 さてこの時の時代精神とは何なのか?
 帝政ロシア後期、フランス革命やナポレオン戦争により、専制政治に対する疑念や不満が渦巻き出したヨーロッパ。辺境の地ロシアでも、ロマノフ王朝による絶対王政の後進性について批判が噴出し、デカブリストの乱によって実力行使に移されるも、鎮圧され批判論壇は沈黙を強いられることになる。自由主義的愛国者達は虚無感に陥っていた。この自由主義や啓蒙思想と、専制的な反動と虚無感が時代精神として存在し、そんな彼らの心象風景を想像する事で、オネーギンの気持ちも解り得るのではないか。。。と、まぁ僭越にもそんな風に思ったりもする。
 実は恋する詩人レンスキイにも自由主義的思想が暗示されている。ドイツ留学帰りであることが紹介されているけれど、その際に「ゲッチンゲン精神に徹した男盛りの美丈夫」となっている。ドイツリベラルの祖と言われる事になるゲッティンゲン大学の7人の教授が、ハノーファー王の専制的な政策を批判して、追放・免職となった事件を覆う精神を指す。オネーギンとレンスキイはどんな議論をしていたのか考えるのも面白い。

 最後に、ロシアの田舎の情景を理解するのに、ジェーン・オースティンを読んでいたから解りやすかったとの感想があった。彼女は同時代のイギリスで、やはり田舎の中流家庭を描いていた。おそらくそういった過去の読書が地層となって、新しく出会った本の理解において触媒となるんだと思う。僕はあまり突っ込まなかったけど、プーシキンとバイロンの関係も知ってたら面白いんじゃないかと思うし、言ってみれば、バイロンやルソー、自由主義の時代精神などが、消化酵素として読書を助けるってことなんじゃないかな、って思う。勿論これは人それぞれで、僕は19世紀ロマノフ朝における自由主義的運動に対する認識を深めて、この小説を味わう事ができた。これだけ言っといて消化酵素じゃないけど、胡椒かけたら美味くなった、ってところかな。。。

─ 文・竹本 茂貴 ─