2023年6月

2023年6月7日
課題図書:「疎開日記」谷崎潤一郎

昭和十九年七月十日印刷
兵庫県武庫郡魚崎町魚崎十六番地ノ壱
発行者 谷崎潤一郎
昭和十九年七月三十日発行
大阪市南区安堂寺橋通一丁目一番地
印刷者 濱田印刷所
非売品 限定二百部 附献呈名刺

表紙 「細雪 上巻 谷崎潤一郎著」
19✕14cm
書扉 「潤一郎著/ささめゆき上巻/松廼屋蔵版」

東京のある古書市に出品されていた目立たないこの一冊。おそらく、いやきっと気がつかずに通り過ぎてしまったでしょう。もし『疎開日記』を読んでいなかったら。

今回の課題図書は『疎開日記』。谷崎潤一郎(以下、谷崎)が住み慣れた関西から熱海へ疎開した昭和十九年から同二十年八月十五日までの日々が綴られています。始まりは正月元日。まだ魚崎の自宅に荷物を残したままで、松子夫人と一家五人のひっそりした元旦を迎えています。親戚が屠蘇を持ってきてくれたことや近所の旅館に湯をもらいに行ったこと、年始に出掛けたことなどが記されています。しかし、六日には「本日仕事始めとして「細雪」の続稿にかかる」と姿勢を正しています。

 前年の昭和十八年は谷崎にとって受難の年でした。中央公論1月号に始まった『細雪』の連載が、3月号の第二回で「時局にそぐわぬ」という理由で、中止となってしまうのです。以後、谷崎は発表するあてのない「細雪」の原稿を書き続けることになりますが、宙に浮いてしまったその原稿を『細雪 上巻』として脱稿、限定200部の私家版として出版することを決め、魚崎から大阪へ印刷、製本に出していました。

そのような経緯を持つ『細雪』が「疎開日記」の中でどのように書かれているのかに興味をそそられての選書でしたが、細雪自体の記述はさほど多くなく、魚崎の自宅に諸々の用事で戻ったり、東京に病床の友人の見舞いや出版社への訪問、今度いつ来れるかわからないから永井荷風の偏奇館を訪れるなど東奔西走の日々が記されています。出版社を訪れた際には、偕楽園で牛肉を食したり、何処其処で弁当を使わせてもらったなど食に関する記述も見受けられます。

メンバーからは第一声、「戦時中なのにいいもの食べてる!」という驚きの声と、「日記を読むって他人の生活を覗き見してる気分になる。谷崎も後から他人がこれを見るとは思ってなかっただろうし…」という感想、「何があったかはよくわかるけど、そもそも日記って文学なのか?」という疑問や「でもここに書いてあるのはほんとうにあった事実だから、そのことには価値があると思う」という見解など、多彩な意見交換が行われました。

確かに熱海はまだ食材が豊富で谷崎は戦時中を通して比較的豊かな生活に恵まれていますが、都を離れた疎開先の暮しはやはりさびしいものだったようです。魚崎から持参した数少ない書物やレコードを繰り返し鑑賞したり、ラジオの落語放送にかじりつき、少しでも文化に触れようとする谷崎の姿が垣間見えます。

そうした中で昭和十九年七月六日に私家版細雪の見本刷り二冊が大阪の印刷所から届き、「なかなか良い出来なり」と頬をゆるめる様子や、同年十二月十三日には空襲警報の中、「家族は壕に入りたれども予は「細雪」を執筆す」など時局に立ち向かう姿も綴られていきます。

日記にあまり言及がないのは、むしろ「細雪」を書くことが当たり前の日常だったからなのでしょう。だからこそ、「今までの分は気に入らないから全部書き直し」とか「なかなか進まない」などの特筆があり、読むうちに行間から、ひたすらに執筆する谷崎の姿がにじみ出てくるように思いました。

後年、人に見られることを意識したのか、時局に配慮したのか、淡々と記す記録の中で、一度だけ谷崎が前後を忘れて感情的な行動をとったことがあります。

それは昭和二十年三月十日の東京大空襲の翌日、知人や出版社を案じた谷崎がいても立ってもいられず東京に行こうとし、家族が必死でとめるのも聞かず、それならば死ぬときは一緒だと松子夫人も同行し、上京する場面です。翌日に汽車が動いていたというのも驚きですが、無事東京に着き、出版社にも被害はなく、「大変な時にわざわざ…」と逆にねぎらわわれたりするという内容にも、戦禍のなかの人々の様子を肌で感じるリアルさがありました。

谷崎は戦況に常に目を光らせ、本土決戦の噂に、そうなれば間違いなく熱海は敵軍の上陸地点になるとして、関西への再疎開を決め、岡山の津山から勝山へと移り住みます。近辺をよく知るメンバーがいて、「あそこに疎開したのなら、たいへんだったろうな…」とぽつりとつぶやいた言葉が、八月十五日、「本日午後より空襲全く止む」と半ば茫然とした谷崎の姿と重なり、印象に残りました。

敗戦まであと十日という時に、谷崎は魚崎の自宅を空襲で失い、山田孝雄の朱が入った源氏物語の草稿や多数の書簡を焼失します。八月十三日には同じく空襲で焼け出された永井荷風が東京から谷崎を頼ってやって来ました。「永井さんは思ったより元気だ」と苦笑いしながらその処遇に頭を抱えている矢先の突然の終局でした。

永井荷風は大正期に近代化で失われ行く日本の風物を自らの筆で書き記すため、江戸時代の切り絵図とこうもり傘を片手に、東京中を歩き回って『日和下駄』という作品を残しています。

両人とも、失われていく日本の美を黙って嘆いている作家ではありません。二人で月夜を眺めながら、

「なあ、谷崎さん、今度はあんたの『細雪』の番だなあ」などと、荷風が呟いたのかどうか?『疎開日記』にはそんな想像を掻き立てる作品でもあるのです。

日記は文学となり得るのかどうかと問われれば、答えはやはりYESだと思います。それはきらきらした透明のヴェールのように谷崎の私家版や原稿や書簡などを覆って、「細雪の誕生したふるさとはここにあるよ」と示しているようにも思えます。だからこそ、たった200部しか刷られなかった上巻のみの『細雪』が、「これは大事なものだから」と人の手から手へ渡り、今日まで伝えられていると思うのです。

『細雪』は昭和二十一年から二十三年にかけて中央公論社から上中下全巻が刊行され、世界的にも評判となるベストセラーとなりました。そして、メンバーが異口同音に口にした「読書会でなければ絶対に読まなかった~」という『疎開日記』は、共に読み語り合う読書会の愉しみや価値をあらためて感じさせられた貴重な機会ともなりました。

ー文・Chiro ー