2019年9月20日
課題図書:「夕べの雲」庄野潤三
いきなりだが、別の本の話をする。ホモ・サピエンスに関する本だ。「ネアンデルタール人の謎」によると、彼らホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスは現生人類の親戚筋だが、僕らの直接の祖先ではないらしい。脳の容積(実は彼らの方が大きい)、四肢の構造など、物理的にはおおかた現生人類と変わらない。ただ、命運を分けた違いがある。それは発声機能が著しく乏しい事だ。つまり彼らはコミュニケーションに限界があり、それゆえ徐々に現生人類に住処を奪われたのだそうだ。
見方を変えれば、僕たちホモ・サピエンス・サピエンスはコミュニケーションを取れるサルだ、ということになるのかも知れない。
遥かに時代は下って、昭和の日本。「夕べの雲」は絵日記の様な小説だ。とりたてて特徴のない家族が、平坦で平穏に暮らす話だ。血も湧かなければ、肉も踊らない。側から見たら退屈だが、それでいて紛れもなく僕たち家族の営みだ。笑い、戸惑い、食べて、眠って、目覚める、誰もが日々繰り返すこと。そうした彼らの生活の中に、僕らは自分を見つけ出し、両親、兄弟、姉妹を思い出す。退屈だが懐かしく、凡庸だが特別だ。なぜならそこにいるのは僕らだから。
僕らの鏡である主人公の家族は、本作中で実によく会話をする。最初のパラグラフこそ、作者本人と思しき父親のモノローグが続き、庭木に対するこだわりに、なんでそんな事気にするの?と言いたくなる。しかし夏休みの宿題の話以降は、家族の会話が主体だ。長女の机を買うか否か、家族の食べ物の嗜好、骨董品を手に入れる妙な経緯、末弟の答案、勝手に呼び名をつける近所の様子、テレビをつける際のルールとみんなで見る番組の内容、発熱時のオリジナル療法、ムカデをめぐって、色々な事が話される。
話題がないのではないかという、僕の懸念に反して、読書会での会話もある程度弾んだ気がする。
家族に起こる出来事や会話を見るのは、「サザエさん」に似てるとの感想があった。新聞に掲載されたという点で、何かしらの類似要素があるのかも知れない。日経の編集が筆者に依頼したということについても、意見が交わされた。高度経済成長の強力な担い手であったろう日経新聞の読者は、本音ではこんな他愛ない家族に憧憬を抱いていたんだ、と。それを見抜いた同社編集の慧眼もまた素晴らしいとも。
しかし比較的多く語られたのは、メンバーそれぞれの思い出だ。他愛ない家族の会話に、何らかの記憶を呼び起こされるようだ。それらを聴きながら、感じることがあった。上手く言えないが、食べ物でいえば、スパイスではなく出汁が効いているそんな感じだ。普段意識はしないが、なくてはならないものがそこにある。
あるメンバーは言った。普通が一番良くて、そして贅沢なのだ、と。言葉はないが、みんな頷いていた。
正直なところ、僕はこの本に面白味をそんなに感じなかったのだけど、メンバーとの会話で感じ方が変わった。もう一度読んでみようかとさえ思った。コミュニケーションの結果、僕の中で新しい見方が生まれたんだろう。そんな新鮮な驚きを感じることが出来た今回の読書会だった。
― 文・竹本 茂貴 ―