2019年8月

2019年8月9日
課題図書:「野火」大岡昇平
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「野火」、戦争小説といえば必ず名前が上がる本である。
こういうものを避けていてはいけない、そんな想いがずっとあった。

一人で読むのは億劫だったともいえる。

主人公はレイテ島にて肺を病み、部隊から芋六本だけもらい、
野戦病院に行けと厄介払いされるところから始まる。
死を宣告されに等しい彼は、病と、飢えと、敵からの攻撃に怯えながらも
美しい自然に囲まれたフィリピンのジャングルの中をただひたすら彷徨う。
そしてそこに何かの暗示であるかのように、彼は「野火」を何度も見ることになる-。

非日常の風景と状況なだけに、メンバーはなかなかこの話に共感することが難しかったと言っていた。
部隊を追い出されたことで、突然亡くなる可能性が依然高いなか、
最後を自分の思い通りにできる時間を与えられた主人公、ちゃんと生きなくては、と思ったのでは。
将軍とかではなく、普通の一介の兵士から見た戦争について描かれている。
主人公の孤独、神の存在が支えだったのではないか、
同胞から与えられた「猿の肉」は人肉と知りつつも食べたのに、自分の手を汚すことは無かった。
野火の下には人がいる、それを気にするのは人肉を欲していたからではないのか。
前半は固有名詞が出てこない、しかし後半から登場人物名前が出てきたので現実感があった。
何とも言えないが、読んでよかった。
などなど意見として出された。

先の見えない戦い、アメリカ軍へ投降を試むも失敗する日本兵、
じわりじわりと極限状態になっていく精神の変化、
すでに気が狂い、死にかけている仲間の兵士は「自分が死んだら食べていいよ」と言う。
しかし葛藤の末、すでに人の形を留めていない死骸を彼は口にする事は出来なかった。

幸いなことに、私は今まで飢えと疲労の極限を体験したことは無い。
作者もまた捕虜となったため、ここに描かれている事は実体験ではなく、
仲間の話を聞いて構想を練ったのではないかと思われる。

野火、これは通常ならば田舎の長閑な「生」の風景である、
しかし戦争という非日常では、まったく違った意味を持ってくる。
通常の思考回路が、だんだんと侵され、狂っていくのが戦争なんだと、
己で手を下さずとも、猿の肉として与えられたなら、私は食べるだろう。
これは誰にでも当てはまる話なのだと、そう思った。

― 文・ハセガワ ―


2019年8月30日
課題図書:「崩れゆく絆」チヌア・アチェベ
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暑いときには、暑い国の物語を、それもあまり、馴染みのない国の文学を!

今回の作品は、「アフリカ文学の父」といわれるナイジェリア出身のイボ人作家、アチェべの「崩れゆく絆」です。

西アフリカのどこかにある、「ウムオフィア村」。
そこには、古くから伝わる言い伝えや、呪い、祈りがあり、村のおきてに沿って人々が暮らしを営んでいました。主人公は、一代で名声と財産を築いた男、オコンクゥオ。このオコンクゥオが家長として日々、一族や共同体の問題に直面するのですが、彼を真に追い詰めたのは、先祖の精霊でも、厳しいしきたりでも、戦争でもありませんでした。西欧社会からきた、キリスト教だった――というお話です。

さて、ナイジェリア。地図のどこにあるのか正確にいえるでしょうか?
ナイジェリアに行ったことのあるメンバーは、ひとりもおらず、一番多かったのが「ナイジェリアの文学を初めて読んだ」という声でした。本を通して未知の土地にせーの、で飛び込めるのが、読書会で味わえる素敵なことのひとつ。
ここで、メンバーによる読後の寸評を簡単にご紹介します。

* よその正しいことを受け入れる前に自分の正しいことを貫くと悲劇になる。(けんすけ)
* オコンクゥオには共感できないけれど、終わり方が好き。(けんけん)
* 植民地主義、宣教師がダーク。「おらおら」な家父長制へのアンチテーゼ。(しげ)
* コミュニケーションの下手さ、自分たちと違うことの否定から生まれる悲劇。(はせとも)
* オコンクゥオの人生は、その親――いただけない父が落とした影に支配されている。(牧)
* 『船乗りクプクプの冒険』が頭の中で重なった。(やすこ)
* アメリカ大陸での宣教師のことも頭に浮かんだ。アチェべの三部作も読みたい。(むね)
* 日本の室町文化がアフリカの文化と構造が似ている、という説を思い出した。(ハセマリ)
* 文化を理解させようというスタンスの訳注が、理解を助けてくれた。(ぴ)
* 女の弱い男社会。迫害されている人を救う、という布教のやり方は巧み。(のぶ)
* 「古来からの調和」の崩壊を安易に批判せず、冷めた目で書いている点が秀逸。(こう)
* 被支配者の文学に惹かれる。また、文化も含めて伝えようとする訳者の愛を感じた。(れ)

などでした。

とくに注目が集まったのは、オコンクゥオのキャラクターと、彼の悲劇について。イボ族独特の善悪の価値観と、倫理観が織りなす強引なストーリーを、強引な主人公がズンズンと進んでいきます。愛されキャラでもなく、共感も得られにくく、万能でもない、どちらかというと<めんどくせぇ>男――という主人公の設定は、果たして効果的だったのか?この結末で良かったのか? という疑問が挙がりました。ほかに、植民地化の世界史を今一度、洗い出してみたくなった、という意見も出て、司馬遼太郎氏の名前も引き合いに。歴史好きメンバーが熱い、赤メガネならではのディスカッションでした。

ディテール萌えで盛り上がったのは、独特の表現。イナゴの群れの到来に人々は喜び勇み、足の踏み場もないほどの人混みを、米粒を使った比喩で言い表す。こういうくだりをみつけ、固定観念が崩されて嬉しがるのって、旅と重なります。

世界文学は、こんなふうに常識をくつがえし、隔たりを埋めるものであってほしいです――文学のない人生なんて!

ナイジェリアの人をちょっとでもわかろうと、干したイナゴをみんなでポリポリ食べ、ヤム芋のフフ*をつつき、ヤシ酒を酌み交わし語らったような、そんな回となりました。さてさて、次はみんなでどの国を旅しましょう?

(* ヤム芋を餠のように臼でついた食べ物)

― 文・安納 令奈 ―