2020年9月

2020年9月6日
第173回課題図書:「出家とその弟子」倉田百三

コロナ禍でいろいろなことが大きく変わりました。今後更にもっと変わっていくことが予想されます。自粛生活にも慣れてはきたものの、ほんの数カ月前までの私たちの日常は、既にもう戻ってはこない、遠いところに行ってしまったようにも思えます。

会いたい人に会えず、自由に行動できない限られた生活の中でも、とにかくできることを模索して、前向きに「withコロナ」を進めていこうと努力もしています。でも何かしら自分の気持ちを押し殺して我慢をし、何とか耐えしのいでいるような状況です。

この異常な環境に置かれて、何か拭いきれない心の不安を抱えたまま、日々過ごしている人はたくさんいるのではないでしょうか。でも、このコロナ禍に見舞われる以前から既に、私たちはこの社会での生きづらさに、悩み苦しみ、心の癒しを求めて生きてきたのではないでしょうか。

今回の課題図書「出家とその弟子」は、大正5年、倉田百三の26歳の作品です。この作品は悩みや苦悩を癒し、解き放つものとして、人間が生きていく上で最も大切なものは祈りであると説いています。浄土真宗の高僧親鸞と、師の教えを素直に受けとめ、実践していこうとする親鸞の愛弟子、唯円との二人の会話の中にちりばめられた言葉の数々は、読んだものの心に強い感銘を与えます。

コロナ禍で疲弊した私たちに、この書は果たしてどのように響いたでしょうか。

この本は約100年前に書かれました。タイトルから宗教に関する説教くさい中身ではないかという印象を受け、面白くなさそうと思った人も多かったようです。

読後の寸評では「いろいろな場面ではハッとさせられることが多かった」「唯円の恋、そして親鸞が唯円の恋愛相談に乗っているという見方で読み、とても面白かった」「唯円が親鸞に悩みをぶつけ、ひたすら救いをもとめようとする場面のやり取りが目に浮かぶように描かれていて良かった」「戯曲形式で読みにくいかと思ったが、サクサク読めた。」「タイトルがキャッチーでない。」「組織の中で置き換えると、悩める男、親鸞の人間関係の裁き能力がすごいと感じた。それは、もはや親鸞メソッドといえるものである。」「ラストシーンのこのままでいいのだという言葉に何よりが安心感得られた」

「とても面白かった。今の自分と被るところが多く、まるでお寺で親鸞に教え諭されている感覚になった。特に恋について、本当に繋がる人は周りの人を不幸にしない、という言葉や、人を責めるわけでなく正しい道を行きなさい、という言葉に感動を覚えた」「第6幕がドラマテチックで良かった。親鸞の生きた時代背景等もっと調べてから読めばよかった。後半へいくほど面白くなった。宗教に支えながら宗教で迷う、心の動きがしっかり描かれている」

「人は置かれた時代に関係なく、重いものを抱えながら生きなければならない。人はいかに生きるべきか、恋愛について親鸞の語るところに感銘をうけた。Sさんに相談しているときのように感じた。過去におきたハプニングに対して、これを読んでいたらもう少し違った対応ができたのではないかとさえ考えさせられた」。

以上の読後感の他に、「戯曲」という観点から、とてもユニークな意見があり興味がわきました。

「日本の現代劇の黎明期のものとして貴重で、読む機会を得て良かった。とても面白い作品なのに今上演されていないのは、現代の演出家にとっては、長ゼリフが多く演出しづらいからではないか。また登場人物全員に共感でき、よく理解できるこの芝居が現代に上演されない理由は、逆に簡単に理解でき、共感できてしまうからではないか。なぜなら、演出家たちは理解できないことに燃え、力を注げるからである。この作品はおそらく誰が演出しても、それなりの作品ができると思われる。しかし、演出家同様、やはり観客にとっても理解しがたいものが作品として受けるから、究極、小学校で上演するといいのではないか?」

約100年近く前に書かれた作品ですが、受け入れてもらえるのか、不安に感じていましたが、それぞれの読み手の皆様に思いがけなくも多くのものを残してくれたようで、選書して良かったと思いました。

ちなみに著者倉田百三氏は広島県庄原市に生まれ、広島県立三次中学校卒業。母方の叔母シズが嫁していた三次町の宗藤襄次郎家に寄寓、ここから通学したとのこと。前々回の読書会の課題図書「稲生物怪録」の舞台も広島、三次藩の武士・稲生平太郎の屋敷で、奇しくも不思議な「三次」繋がりでした。

最後に参考文献として

倉田百三氏はこの戯曲と同時期に、「愛と認識の出発」「青春の息と痕」の二著があり、「出家とその弟子」を解する最大の鍵と亀井勝一郎氏は解説で伝えています。

さらに、弟子唯円が作者といわれる親鸞の教えを伝える「歎異抄」も親鸞の教えを深めてくれそうです。 五木寛之氏の「親鸞(上・下)」は私の気付かぬ間に、「親鸞 激動編(上・下)」「親鸞 完結編(上・下)」が出版されており、私を慌てさせてくれました。以上、最後までありがとうございました。

─文・ 弘岡 知子 ─


2020年9月27日
第174回課題図書:「荒野へ」ジョン・クラカワー

多くの人たちと同じように、ここ数ヶ月、狭い生活圏内で単調な日々を過ごしていることもあり、何か壮大な、此処ではない何処か的な、U2のwhere is the street have no nameをBGMに目を細めたくなるような、「旅」を感じられる作品が読みたくなり、この「荒野へ」を選びました。

著者はジャーナリストであり、登山家であるジョン・クラカワー。1992年に起きた、ある青年が数年の放浪の末にアラスカの荒野で死体で発見されるという事件を描いたノンフィクション作品です。 裕福な家庭に育ち、優秀な成績で大学を卒業しながら、なぜ青年は放浪の旅に出たのか? そしてなぜ彼は死んだのか? 当時のアメリカでもこの事件は注目され、この作品はベストセラーとなり、2007年には映画化されるに至っています。  著者は残されたクリス・マッカンドレスの日記や写真、人々の証言などを通じて、荒野への旅を再構築していますが、できる限り主観的な考察を挟まず、客観的事実から読者に、彼の複雑で純粋な心情を推察させるような文章・構成になっています。また本作後半では、著者と彼との類似点を挙げた上で、著者自身の体験を語っていて、そのパートは登山レポとしても面白いです。各章タイトルが地名になっているのも、読みながらの旅感があって良いです。  読書会メンバーの総評としては、「ノンフィクション作品は久しぶり」、「冒険っぽいのが好き」、「知らない街を歩く感じでワクワクした」「作品の構成が上手く、読みやすい」といったポジティブな意見や、逆に「自分が若いころの感情を突きつけられるようで辛い」、「彼の行動が状況から逃げているように感じてしまった」「こういう冒険に惹かれる人たちのことが理解できない」などの感想がありました。  また、題材としては極地、極限を目指す状況を描いた角幡唯介「極夜行」や、沢木耕太郎「凍」などとの類似点の指摘もありましたが、一方で本作が示す「荒野=the wild」は、自然環境的な意味合いに留まらず、思想的な意味を含んでいるのでは?という意見もありました。青年クリス・マッカンドレスは、基本的には優秀で、愛すべき人物でありながら、頑固で、衝動的な一面を合わせもち、しかもかなりヘビーな読書家であったこともあり、彼の思想や行動原理については想像し、語る余地が多くありました。 この青年は何のために「荒野」を目指していたのか?「精一杯に自分を生きるため」「社会からの脱却のため」「抑えきれない衝動のため」等、様々な見方ができると思いますが、僕自身としては、彼にとってのイニシエーション(自己通過儀礼)だったのではないかと、感じました。ある種の人々が強く持っているEdgeに自分を晒したくなる衝動。彼はそれに純粋に従い、旅を続けながら、どこかで人生の次のステージを想像しながらアラスカの荒野に入っていったように思います。  

…ちなみに、この本の印税の20%はクリス名義の奨学資金に寄付されているようです。今回の赤メガネ参加メンバーも、この本を読んで語り合うことで、巡り巡ってクリスが残した何かの一部になった、ということになるんでしょうか。

─文・ 中村 健太郎 ─