2019年2月

2019年2月1日
課題図書:「夜間飛行」サン=テグジュペリ
20190202_025510

サン=テグジュペリは1900年にフランスのリヨンの伯爵の子として生まれ、作家であり、また郵便輸送のためにパイロットして欧州と南米間の飛行空路開拓に携わった操縦士でもあります。サン=テグジュペリの代表作である「星の王子さま」は、一度は耳にした方が多いと思います。個人的なことですが、曽祖父の名前がついている道がリヨンにあり、私の家がリヨンと深く関わりがあり、幼少期からこの街のことを耳にして育った私にはこの街の出身というだけで勝手に親近感がわき、とても興味のある作家さんです。

今回の課題図書の「夜間飛行」は1931年に発表され、「夜間飛行」とデビュー作の「南方郵便機」の2話が収録されています。「夜間飛行」は、郵便事業に命をかけて働く操縦士たちの物語で、パタゴニア地方からブエノスアイレスに戻ろうとした郵便機が、悪天候に見舞われて墜落してしまう様子が描かれています。この物語の中心人物である郵便事業の支配人であるリヴィエールは部下のミス一つでも許さない厳しい人物であり、またファビアンが操縦する郵便機が墜落した直後も、落ち込んでいる暇もなく、すぐに業務続行を宣言してそこで物語は終わります。調べたところ、サン=テグジュペリは操縦士をしていた時代に、リヴィエールと同じ役職についていた事があったようで、操縦士と支配人の両方を経験したサン=テグジュペリは、航空技術が発達しておらず危険と隣あわせで飛行する様子と、また支配人の業務遂行への苦悩がリアルに描かれています。現代に置き換えると、管理職が感じる上司と部下の板挟みの苦悩というのでしょうか、そんな感じの苦悩を感じ取ったメンバーが多かったように思います。また操縦士ファビアンの妻が出てきますが、こちらは会社と家庭の関わり方を象徴しているようで、企業、管理職、一般社員、社員の家庭との在り方が描かれているように思いました。

メンバーからのコメントは以下のコメントが挙げられました。
・言葉が美しい
・墜落するならパラシュートがあればよい
・昔はレーダーがないので墜落は燃料切れの時間で確認することに驚いた
・フランス文学特有の比喩を使った表現が特徴的だった
・リヴィエールのマネジメント力に興味がわいた

さて、もう一話の「南方郵便機」はサン=テグジュペリがサハラ砂漠にある中継基地キャップジュピーの飛行場で働いている間に執筆された作品です。そのため、砂漠と夜空の光景などがとても美しく描かれています。しかし、本書の内容は、メンバーも読解に非常に苦労した様子で、私も3度読み返しやっと内容が少し理解出来ましたが、とても精読が必要とされます。読みにくい理由は、一人称、二人称、三人称が頻繁に切り替わり、そして「僕」という人物が登場しますが、自分と友人の2人が「僕」の名称で語り、さらに時間軸も過去と現在を行ったり来たりするので、誰がどこにいる状態なのかを把握するのが、とってもとっても難しい難読本でした。

さて、本書の内容はフランスからアフリカ大陸の定期路線を飛ぶ郵便飛行しペルニスが、機体の故障により、半年に一度しか郵便が届かないような砂漠に不時着してしまうことから始まり、ベルニスの過去の恋愛が追憶で語られていきます。こちらの作品は「星の王子さま」を連想するワードが多く出てくるので継承作品とも言われているようです。2作品を読みきり、本作品を読むには、まずはサン=テグジュペリの生い立ちや時代背景を調べて関連付けながら読むと、さらに理解が深まると感じました。普段本を読み慣れているメンバーもほとんどのメンバーが1度読んだだけでは理解に苦しむ結果となっていたようなので、かなり手ごたえのある一冊となりました。


2019年2月22日
課題図書➀:「1R1分34秒」町屋良平
BE51821A-6BFD-495E-A0A7-062861D7FD33

  純文学が苦手な自分にとって芥川賞は鬼門だ。以前にも『異類婚姻譚』で痛い目に遭っている。もちろん、「文字」に「芸術」を紡ぎ出すポテンシャルがないと考えているわけじゃない。お絵描きがときに芸術へと昇華することがあるように、作文が芸術になってもなんら不思議はない。ただこれまで、なるほどこいつは紛う事なき芸術だ、と思えるものに出会ったことがないだけの話しである。そういう渇望感が、逆に僕の純文学作品への期待値を高める。芥川賞受賞作? お手並み拝見といこうじゃないか、と。

 『1R1分34秒』は、ボクシングを題材とした作品。第160回芥川賞を受賞した。1ラウンド1分34秒という言葉は、3分を1ラウンドとして行われる試合の、開始後1分34秒目という意味だ。実はこの題名は結末と強く結びついていて、後にメンバー間で意見が二分されることになる。

 表紙には主人公とおぼしきパンチを繰り出すボクサー。帯には「なんでおまえはボクシングやってんの?」というコメント。なんでボクシング? まずはそこに興味をひかれた。ボクシングは僕の理解を超えたスポーツだ。きつい、危険、食えない(収入的にも食べ物的にも)に加え、当たり前だが痛い。顔面があんなに腫れ上がるスポーツなんて他にはない。もちろん、タイソンやメイウェザーみたいになれば高い名声と莫大な収入が得られるけれど、皮肉なことに彼らが注目を浴びれば浴びるほど、ボクシングとは品性の欠片もない暴力的な人間がやるスポーツなのだというイメージも広まる。そういえば日本にも亀田とかいう奴がいたっけ。おまえは本当に亀田みたいになりたいの? 
 だからこそ、「なんでおまえはボクシングやってんの?」に目が止まった。数多あるスポーツのなか、よりによってボクシングを選ぶ奴の気が知れないと考える僕にとって、そこに自分の理解を超えた何かが記されているのであれば読む価値は十分にあるはずだ。「自分の弱さを持て余すぼくが世界と拳を交えたとき」と書かれた帯のサブコピーもそんな期待を高める。果たしてロッキーを超える感動がそこにあるのか?

 期待とは裏腹に、物語は淡々と進んでいく。主人公はとりたてて才能があるわけではなく、ボクシングに人生を賭けているわけでもなく、セフレと遊んだりしながら与えられた練習メニューを淡々とこなす日々を送る。周囲も、そして他ならぬ主人公自身が、これ以上強くなれるなどとは夢にも思っていない。日本一はもちろん、世界タイトルなど論外。一応プロとはいえアマチュアに毛が生えた程度の世界観のまま物語は進んでいく。

 この鬱々としたプロセスのなかで描かれる主人公のリアルな心理描写が、この本のトピックなのだろう。だろう、と書いたのは、そこには僕が期待していた「なんでおまえはボクシングやってんの?」という問いかけに対する回答を見いだせなかったからだ。もちろん歓びや幸せに定義なんてない。その人が幸せと感じればそれが幸せだ。パンチを食らい、リングに伏せる瞬間、生きている実感を強く感じる、とかもアリだと思う。けれど、少なくとも僕は中盤までの展開に幸せや歓びの要素をなんら見いだせなかった。

 そんな状況のなか、新しいトレーナーにウメキチを迎え主人公は徐々に変わっていく。次第に勝ちたいという欲望が強くなっていく。自分の限界を理解しているだけに、次の試合で勝っても何も変わらない、報われることはないともわかっている。でも勝つ以外の選択肢はないと考え始めるのだ。ここにはちょっとグッときた。なぜボクシング?という疑問に対する回答にはならないけれど、自分で選んだ道を自分なりに歩んでいくしかないという達観というか諦めというか決意というか悟りというか、それが妙に清々しく伝わってきたからだ。果たしていまの仕事は自分に向いているのだろうか? 誰もが一度は考えたことがあるだろう疑問。でも仕事なんてそもそもそんなものなのだと言われているようで、気持ちが軽くなる。

 そして物語はラストを迎える。強くなるためにボクシングジムの門を叩き、プロ初戦での勝利に酔いしれた「かつてのぼく」。その後、夢と現実の差を思い知らされ、勝つことの歓びや負けることの悔しさはおろか、過去の記憶や自分の存在すら放棄することで辛うじて生き続けている「いまのぼく」。その「ぼく」が、再び自分を取り戻すためには勝つしかないと自らを奮い立たせ、厳しい減量を続ける試合三日前でこの物語は終わる。

「三日後に1ラウンド1分34秒にTKOであっさり勝つ、そのあっけない結末のためだけにこの夜をあと二回。」

 このラストをどう解釈するかでメンバーの意見は割れた。三日後の試合の1ラウンド1分34秒で勝ったのは現実なのか。それとも主人公の単なる願望なのか。僕は願望と捉えたが、もしかしたら現実を起点に振り返った文章なのかもしれない。まあ、どちらともとれるし、「インタビューを読んだけど作者はそこに触れていなかった(まき)」ことからも、あえて白黒つけないことが作者の狙いとも受け取れる。ここで重要なのは試合の結果ではなく、主人公が、与えられた役割をまずはきっちり果たしたと思えるかどうか。作者のメッセージはそこにあるのではないか。

「ウメキチと出会った後もストイックさがいまいち足りない(しげ)」のは事実だが、それでも「一生懸命打ち込む瞬間がたしかにあった(けんけん)」ことが、結果ではなく生き方としての充実=希望に繋がる。まさにその部分が「主人公と社会との関係であり、それはボクサーに限らずいまを生きるすべての人たちへのメッセージになる(ぴろ)」であり、「最後はズバーンと毛穴が開いた。これしか終わり方はない(けんすけ)」という高評価に結びついた。

 一方で、冒頭でも触れた純文学=言葉の芸術という観点で捉えると、この作品に高い評価を与えるのには若干戸惑いを覚える。作品全体としてのメッセージや、主人公の心理描写はたしかに見事だが、違和感をもったのは、些細な点ではあるけれど「漢字とひらがなの使い方が変わってる(はせまり)」点だ。漢字をひらがなに置き換えることを「開く」と言う。冒頭に「寂寥(せきりょう)」という必ずしも一般的ではない言葉をもってきつつ、そのすぐ後ろに「さしこむひかり」などと開いてみせる。もし僕が担当編集者だったら、「町屋さん、そこ、こだわるところじゃないですよ。もっとシンプルにいきましょう」とアドバイスしていたと思う。芸術とはそれを生みだした者の感情や哲学の発露であり、純文学の場合、そのための手段が言葉だ。つまり言葉は目的達成のための手段にすぎず、中途半端な言葉の技巧は芸術性をスポイルする危険性を孕んでいる。芸術の目的が受け手の感情を揺さぶることにあるとするなら、些細なことで受け手をシラけさせてしまうのはもったいない。もっとも「直木賞は読んでもらいたいもの、芥川賞は書きたいもの(まき)」であるとするなら、的外れな指摘なのかもしれないが

― 文・岡崎 五朗 ―

課題図書➁:「ニムロッド」上田岳弘

毎年、この時期になると、課題図書は芥川賞か直木賞のどちらかが選ばれる。
年2回発表がある中で我々はこの時期に毎回選ぶのである。
ただ、ここ数年は直木賞が選ばれており、芥川賞作品は久しぶりとなった。
これを書いている私個人としては芥川賞作品は好物なので、選ばれた時には心の中でガッツポーズを決めたものであるが、実を言うと過去作品は赤メガネの会の中であまり好まれては来なかった。
その理由の一つに芥川賞が概ね”純文学”であるということが大いに関係していそうである。
“大衆小説”ほどわかりやすくはない。
“私小説(的)”であることが多く、共感しにくいことがままあったし、むしろ反感すら覚えてしまうこともあった。
しかし、”私小説(的)”だからこそ、その作品が書かれた時代のある一部分を切り取った物だと言え、作品からその時代の社会を透かして見ることが出来るのだと私は思うのである。
もちろん一部であるのだから、共感できない人も多くいるに違いない。
ただ、共感なんかしなくたってそういう考え方、感性、生活があるのだと知ることが出来る。
ましてや、芥川賞は新人に贈られる賞である(一応)。
作家として成熟していない状態の、生(なま)に近い状態での感覚を我々は感じることが出来るはずだ。
それはつまり装飾の少ないよりリアルに近い感覚とも言えると思う。
それらを踏まえれば、芥川賞はとても重要な賞だと思っている。
商業的でもいいじゃない。

さて、「ニムロッド」である。
ビットコインが題材になった小説である。
まさに時代の一部を切り取るという言葉が当てはまる題材である。
もしかしたら100年後の日本人は、この小説を読んでビットコインの黎明期を知るかもしれないし、もうそんなものは存在すらなく初めて知るかもしれない。
物語は、サーバー運用会社のエンジニアである中本哲史が社長からビットコインを採掘することを任命されることから始まる。
そんな彼に、ニムロッドこと荷室仁が駄目な飛行機コレクションというメールを送り続けてくる。
そこでは駄目な飛行機が何故造られたのかのあらましとその意義を問いかける。
彼は哲史の会社の先輩で作家の新人賞に3回連続で最終選考まで残るも受賞を逃しその後鬱病になり会社に来なくなるが、実家のある名古屋支店に転勤となる。
ニムロッドは誰にも見せない作品として再び小説を書き始めるが、哲史にその小説を送り続ける。

小説の主人公ニムロッドは、ビットコインが資産として最高の価値を持つようになった世界で、莫大な富を持ち世界中の駄目な飛行機をコレクションするために、高い高い塔を建て人間の王となる。
そのうち、人間たちは効率化を求めて個をすて一つになってしまう。
人間の王はたった一人の人間になり、駄目な飛行機の一つで特攻用に造られた日本の飛行機「桜花」に乗り太陽へと向かう。

哲史の恋人のような存在である田久保紀子は、外資系証券会社に勤務し世界を飛び回っている。
そんな彼女は、飛行機の中では睡眠薬を飲んで到着まで眠ることを習慣とし、住まいがあるにも関わらず、週5日はホテルで寝泊まりする。
過去に結婚していたが、妊娠し胎児に障害があることがわかり堕胎することを決め、離婚した過去を持つ。
彼女は、哲史を通してニムロッドを知り、小説を読み、そして、決断する。

3人がそれぞれの決断によりそれぞれ歩んでゆく。

会では、やはり何種類も登場する駄目な飛行機に注目が集まった。
単純にその存在を面白がる者もいれば、登場人物と絡めた比喩なのかと捉える者もいた。
飛びたいが飛びきれない登場人物たちへの比喩ではないか。
また、飛べない飛行機はダメという感覚は、逆に愛すべきものとして描かれていることであると言うメンバーもいた。
現代という難しい時代を生きる若者(登場人物たちはみな30代後半だが)の物語であり、折り合いのつかない時代の生きづらさを描いているという意見。

そして、物語の根底には、こんな時代における虚無感があると捉えたメンバーがいたが、概ね皆そのような感覚は受け取っていたといえた。

ニムロッドの小説では、現在の資本主義の行き過ぎた先を暗示していたように思うが、効率化や生産性ばかりが求められる今の現実世界においても、赤メガネの会メンバーの多くが感じた虚無感や渇きが、現実にあふれ出しているのは事実であると思う。
多くの人々はその虚無感を感じつつも世界の変化についていくことが出来ず、変わらずまたは変えられず生き続けていくのだろう。

登場人物たちは何か変化したのだろうか?
少しはしたのかもしれない。

現実世界で生きる我々は、どのように生きていけばよいのだろうか?

個人で考えたところで、世界のシステムはもう個人レベルでは微動だにしないのかもしれない。
それでも個々がより良い未来を考え続けなければならないと思う。

人間はどうして行くべきなのかをちょっぴり考える作品となった。

― 文・佐野 宏 ―