2018年11月

2018年11月2日
課題図書:「そして誰もいなくなった」アガサ・クリスティ
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今回の課題図書は往年の名作。
ミステリー小説としてはほぼ完璧な作品。
接点のない男女10名が孤島に集められるところから物語は始まります。
滞在する屋敷に飾られている詩になぞらえて、一人また一人と殺されていく…

とても有名な作品のため、読んだことがあるメンバーも多数いました。
初読メンバーの感想に関しても、
・緊張感がすごい
・今までのアガサ作品で一番ドキドキした
・犯人にびっくり
・読みやすかった
など、概ね好評価。

我が会にはアガサ作品を全作読破しているツワモノも。
そのツワモノいわく、本作はプロットが素晴らしく、アガサは天才だと思い知らされます。
これを機会に他の作品に興味を抱いたメンバーも多数。
そして次に読むのは「アクロイド殺し」がいいのではと盛り上がり、
次回の【裏】課題図書となりそうです。

**以下、ネタバレを含みます。未読の方はご注意ください。**

本作は2部構成となっており、
1部では物語の主要部分つまり事件の一連が描かれ
2部で犯人および事件の真相が明らかに。

2部で明らかになる犯人の異常な殺人欲。
事件を裁くはずの判事が、殺人に手を染める。
行き過ぎた正義感が狂気になることの恐ろしさが見事に描かれていました。
その点を印象深く思ったメンバーも多かったようです。

犯人の異常性について盛り上がりましたが、
もうひとつ議題になったテーマが。
人間は閉鎖された異常状況では平常心が保てず、
パニックになって想定外な行動を起こしてしまうということ。
どんどん人数が減っていき、じわじわ蔓延していく猜疑心。
隣のこいつが犯人かもと思い続けて過ごす息苦しさは想像を絶しますね。

猜疑心が勝り、最終的にあんな悲劇が…
9人目と10人目の殺害方法は本当にお見事でした。

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ミステリー小説を読んでいて、いつも思うことですが

犯人を当てられたことがない

そして今回ももれなく犯人当てられなかったのですが
それ以上に「まさか、あなたがっ!」とびっくり仰天する結末に
ただただ脱帽するしかない爽快な読書体験でした。


2018年11月24日
課題図書:「みずうみ」川端康成
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この文学は「意識の流れ」を味わう文学であり、川端のファンも戸惑う作品となっている。
しかし、われわれ赤メガネの会としてはこの作品の根底に流れる「変態」部分に焦点を当てていきたいと思う。

「変態」
①もとの姿・形をかえること。また、その姿・形。
②正常でない状態。
③(変態性欲の略)性的行為や性に対する関心が正常でないこと。
-広辞苑より抜粋-

個人的にはこの「変態」という言葉は好きである。
なぜならば、人はそれぞれが別個の性格を持ち、それぞれの個性を持って生きているからである。
②に関して言うならば、正常とは一体何か。大勢と同じ意見を持つことや行動を行うことがそうなのか。
誰が正常を決めるのか。
現在、ダイバーシティが声高らかに叫ばれており、とにかく皆、多様性を受けいれようと意識を改革しているところであろう。
その多様性がいわれている今、正常とは何かは以前よりも揺らいでいると思われる。
飛躍するようではあるが、だからこそ現代を生きる我々はほぼすべてが「正常」とは定義できない、つまり「変態」であるといえるのである。
要は、私にとって「変態」とは「個性」との言い換えだと思うからこそ好きなのである。

私はよく耳にする言葉がある。

「俺は、私は、変態じゃあない。(jojo風)」

この様なことをのたまう人々に私は言いたい。
あなたこそ正真正銘の「変態」である、と。
自分が正常であると思いこむことこそ恐ろしい。
なぜならば、正常であることが正しいことと思いこむ。
正しいことは正義。
正義をもって悪(といえば聞こえはいいが、結局は自分の正義に反するもの)を叩くことにつながって行きかねないからだ。
それは、今現在の世の中を見れば明白であろう。
「正常」とはあなたの思い込みであり、むしろ「正常」と思い込むことは、より「正常」ではないのである。

まず、自分を「変態」であると認識しよう。
そうすれば、寛容な世の中になっていくに違いないと本気で私は思っている。

さて、この「みずうみ」である。
ここまでの前置きをしておいてこの話が「正常」な話であるならば、これを書いている私はやはり「変態」であろう。
そう、これは「変態」の物語なのである。
いや、むしろ、著者の川端の変態性がむき出しになった物語なのである。
そしてくどいようだが、私もまごうことなき「変態」なのである。

ストーリーは、美しい少女を見つけると後をつけてしまう性癖を持った主人公、銀平。
教師の彼は教え子、久子と関係を持ち、それが発覚し職を失う。
その後、つけられることに快感を覚える女、宮子の後をつけ、彼女の人には言えぬ大金の入ったバッグを持ち去り、逃走を続ける。
ストーキングする男と、ストーキングされる女たちの欲望が交錯する。

これは「変態性」を文学の位置まで高めた川端の傑作である。

今回の赤メガネの会の男女比は5:2。
私は会が始まる前からこれは好き嫌いがぱっくりと割れるであろうと予想した。
もちろん、性別がそれを決めるということではない。根拠もない。
しかしながら、私が思っていた通り、女性は不快感を示す傾向にあった。(これは会に参加していないが作品を読んだことがある女性の意見も含まれている)

私は冒頭では「変態」を賞賛するようなことを書いた。
しかし、この「変態」もそれぞれの受け手の許容範囲で判断されることになる。
ある人にはある「変態」が良きこと、面白き事だとしても、他の人には受け入れがたきこととなる。
非常にデリケートな感覚であることは認めるとともに、表現には気を付けて行かなければならないと承知している。
ある女性参加者は、気持ちが悪くてしょうがないという意見だった。
それは、登場人物の行動や言動のみならず、もはや、この作品の描写自体もそうであるというのだ。
また、ある男性参加者も、初めは気持ち悪さを感じたと言った。
しかし、2度目に読んだ時、物語に引き込まれたそうだ。
つまり、1度目に気持ち悪さを感じておきながら2度読まずにおれなかったのだ。
なんという作品であろうか。
2度この期間内に読んだという参加者は数人いた。
そのことがこの作品の中毒性を物語っていよう。

また、この作品には、著者本人のコンプレックスがふんだんに盛り込まれているとみた参加者もいた。
彼は、川端に関する作品も読んでおり、外側からの分析を織り交ぜてくれた。
川端のロリコン性もきちんと出ているとも。

主人公の銀平のピュアさに言及するメンバーもいた。
ピュアだからこその行動であると。
そう、「変態」と「ピュア」が相反するものではないということなのだ。

今回は、主に「変態」というキーワードを中心に書いてきた。
もちろん会ではその視点以外の意見も多数でている。
しかし、ここでは触れない。

最後に、繰り返しになるがあえて言おう。(ギレン・ザビ風)
この作品は川端の「変態」性と美しい表現方法により素晴らしいものになっていると。
「変態」を文学に高めた傑作であると。

「変態」で結構ではないか。
でも他人に迷惑をかけちゃあいけない。(jojo風)
まず認識することが大切である。

これから明るく「変態」していこう。