2016年11月5日
課題図書:「人間の絆(上・下)」サマセット・モーム
誰かが自由図書として紹介した本に他のメンバーが興味を持って、追随して読んだり、
貸し借りして本の輪が広がる、ということが赤メガネの会では多々あります。
サマセット・モームの「月と六ペンス」もそんなプチブームになっている一冊ですが、
「もっとモームの世界を共有したい」というメンバーによって今回は「人間の絆」が
課題図書に挙がりました。
モームの半自伝的小説で、上下巻合わせて1300ページ超。よく読み切った!と
自分で自分を褒めているメンバーもいた位、読み応えのある長編です。
幼くして両親を亡くし、叔父夫婦に引き取られた主人公フィリップは、
信仰に疑問を抱き神学校をドロップアウト。画家を目指してパリへ渡ったかと思えば、
その後は医者を志す…という紆余曲折を経た彼の挫折や成長が、
モームらしい人間観察眼をもって綴られてゆきます。
蝦足(実際のモームは吃音だった)という身体的コンプレックスを抱え、
卑屈で自虐的なところも多いフィリップは今風に言えばかなりの“こじらせ”男子。
そんな彼の態度や一貫性の無さにイライラしたというメンバーもいれば、
嫌いだったけどだんだん愛おしくなってきた、社会における彼の身の置き所のなさが自分にも重なった、
といった声も。
特に男性メンバーから共感ポイントが高かったのがフィリップの女性関係で、
悪女ミルドレッドに翻弄され、傷つきながらも尽くす彼を「バカだなと思うけど、
嫌いにはなれない」。
かたや「私はミルドレッドだった!」という女性メンバーの告白(懺悔?)が飛び出したり、
恋愛談義になるとついつい脱線気味に盛り上がるのも赤メガネらしさ!?
しかし今回、皆が最も深く考えたであろうテーマは、本作の中で語られる“人生観”。
あるメンバーはその重要なキーワードとして“無意味”という単語に着目しました。
下巻の中盤では繰り返しこのワードが登場します。例えば
「生も無意味、死もまた無意味なのだ。」
「彼の存在の無意味さが、かえって一種の力に変わった。そして今までは迫害されてば
かりいるように思った冷酷な運命と、今や突然、対等の立場に立ったような気がした。」
「人生無意味、したがって何一つとして言うに値するものはない、という考えを背景に
して、さてこの人生という広大な経糸を考えるとき(中略)どのような好みの撚糸を
選び出して、どのような模様を織り出すとしても、彼としては満足なわけだ」と、
人生が織りなす模様をペルシャ絨毯になぞらえた表現も出てきました。
人生は無意味──そのまま受け取れば絶望的な気分になってしまいそうですが、
これを「だからこそ、ありのままに生きる」と捉えた意見も。フィリップが“無意味”という
ワードを何度も用いて自問自答する数ページは、実はほとんどのメンバーが心に引っかかり、
付箋を貼っていた箇所でした。
ちなみに実際のモームは医師の資格は取ったものの、小説とは違って作家の道を歩み、
フィリップが諦めたスペイン行きも実行しています。一方、ささやかな幸せを手にした
フィリップが最後に選ぶ女性は、実際の妻とは異なるモームの理想の女性像だとも
言われています。さすればこの小説はモームが織り上げたもう1つの人生模様と
言えるのかも知れません。
生き方に迷っていた時期にこの本と出会い救われたというメンバーは「自分が普段、
他人に言っていることは、ここから拝借しているものが沢山あったと改めて気づいた」
そうです。ちょっと苦労しながらも人生について大いに考え、語り合った今回の読書体験もまた、
大事な撚糸の一本として私たちの人生に織り込まれていくのでしょう。
2016年11月25日
課題図書:「草の花」福永武彦
「草の花」の草ってなんの花なんだろ?
薔薇かしら?タンポポかしら?それとも・・・
様々な想像ができるタイトルではある。
いずれにせよ、花というものは咲いた時、その美しさを我々の目の前にあらわしてくれるものであり、ということであれば、どのような花を咲かせたいかということは、どのような草であればよいのかという生き様的なこと、人生においての教訓めいたことが描かれているのか。
はたまた、花はすべて美しく、どのような草であれ、花を咲かせることができるという人間賛美的な物語なのであろうか。
タイトル一つとってみても、これだけ妄想できるのである。
物語は、あるサナトリウムで病を患う「私」が、同じく病を患う「汐見」という男に出会ったことから始まる。
汐見はある日、無謀ともいえる手術を決行し、そのまま帰らぬ人となる。
しかし、死を予期していた(自ら死に飛び込んだようにもみえる)汐見は、二冊の手記を私に託す。
私はその手記を読み、そこに彼の孤独と愛に苦しむ姿をみるのだった。
この手記は、2部構成になっており、1部では、汐見の後輩の青年「藤木」に対する友情としての純粋な愛が描かれている(友情と一言ではいえないものではあるのだが)。
汐見の純粋すぎる愛がゆえ、藤木には敬遠されていき、藤木の病死によって愛は成し遂げられぬまま終わりを迎える。
2部では、藤木の妹「千枝子」に対する愛が描かれる。
まさに恋愛としての愛ではあるが、キリスト教者である千枝子と孤独がゆえに宗教を持たず否定すらする汐見とは結局理解しあえず、互いに愛しているにも関わらず、汐見の出征により、ここでもその愛に終焉が訪れる。
最後に私は悩んだ末に、今では他の者の妻となった千枝子に手紙を出し、汐見の死とともに汐見の気持ちを伝え、千枝子の返信により千枝子の気持ちが語られ物語は終わる。
ふむ。この作品いろいろ考えさせられる。
構成はとても素晴らしい。物語に引き込まれ読ませる。
しかし、わからぬのは汐見の気持ちである。
赤メガネのメンバーの中でも、汐見は一体何がしたかったのか?と。
純粋な愛はわかる(わかってないかもしれないが)。
しかし、肉体に対するものではなく、精神に対するものが純粋なのか。
それもわからんではない。
しかし、2部では千枝子に性愛的なものを抱いているようにみえるくだりもある。
人間全体に対する愛であれば慈しみなのだろうか。
であれば、宗教を否定する汐見の感情は何なのだろうか。
要は、そういった面倒くさい汐見の感情に感情移入しにくかったのである。
とはいえ、同性に対する憧れや純粋に好きという気持ちはとてもよくわかるというメンバーがいたのもまた事実。
異性、同性に関わらず恋愛としての愛を持つこともあろうし、純粋な尊敬によりひたすら信じぬく愛もあろうし、友情としての愛もあろう。
様々な愛のカタチがある昨今ではあるが、多様性と言われてはいるものの、まだまだ認められていない現代社会において、「愛」って何なんだろうと悩む方々もおられると思う。
この作品を読む限り、それをつらぬくことは、とても苦しいものであると思うが、一つの在り方としてあなたの心に響くやもしれぬ。