2018年5月

2018年5月18日
課題図書:「故郷/阿Q正伝」魯迅
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『阿Q正伝』というタイトルには聞き覚えがあるけれど、どういう物語なのかハッキリとはわからない、でも読んでみたい。今回はそんな、ちょっぴりフワッとした選書でした。

事前の知識がないまま本を手に取って、おどろいたこともいくつか。
短編集であること、
作者の魯迅は日本語がペラペラだということ、
魯迅の作品が日本の作家たちに大きな影響を与えていること。
読み進めるうちに、作品の中でも外でも、いろんなサプライズを楽しむことができました。
 
メンバーの寸評は、
・『三国志』や『水滸伝』が好きだけれど、そこにはない生活感が描かれていてよかった。
・ロジックや伏線回収よりも情緒に焦点をあてることで深く楽しめた。
・有名な音楽と同じように、作品の時代性を楽しむ、引用されるべき価値あるものだと思った。
・日本でいう太宰治的ポジションで、どこまで正直なのかわからない感じがした。
といったもの。
はばひろい感想が出るのも、短編集ならでは。

今回みんなで読んだのは、光文社古典新訳文庫の『故郷/阿Q正伝』。
タイトルにもなっているとおり、話題の中心は「故郷」と「阿Q正伝」でした。
 
「阿Q正伝」は名前のとおり、阿Qという人物について書かれた架空の伝記ものです。
舞台は清朝末期中国の小さな田舎の村。経歴も本名すらもよくわからない阿Qは、定職にもつかず、近所の人たちとケンカをして負け、それでも心の中で都合のいい理屈をつけては自分が勝者だと勘違いして満足する日々。近くの町に押し寄せてきた革命(歴史上の辛亥革命)になんとなーく憧れ、なんとなーく近づき、最後は無実の罪で処刑されてしまう、そんなお話です。

この阿Qという、残念な感じにあふれた人物が、当時の中国の人々をニヒルに体現したものであるということは赤メガネメンバー共通の認識でした(巻末の解説に書いてありました)。
しかし、阿Qの度を越したおバカっぷりに疑問の声もちらほら。それは、当時の国民を批判するのが作者の意図であるならば、主人公像はもっとまともな人間の方がその皮肉性が強まるのではないか、というもの。
これには、
日本に留学していた魯迅の目には中国人が阿Qのように見えたのではないか、
もうまともに会話も成立しないという魯迅の中国に対するあきらめが表れているのではないか、
という意見がありました。
当時の読者がこれを読んで、「お前のことだぞ」と言われればかなりのショックだったのではないか、そういう意味では阿Qのこの設定には深い道理がある、というのが最終的に出た結論でした。

古代ローマの詩人ホラティウスも 2000 年以上前に同じことを言っています。
「何を笑うか。
登場人物の名をお前の名に変えれば、
この話はお前のことを言っているんだぞ」

愛される作品は普遍性を持っているものなんですね。

もうひとつ話題の中心となった「故郷」も簡単に紹介しておきます。
20 年ぶりに故郷に帰った「僕」は、プルースト効果で小さいころ自分の英雄だった幼なじみのルントウを思い出す。しかし実際に会った現在の彼は、身分の違いから英雄とは程遠い存在になってしまっていた。時の流れと社会に落ち込む「僕」は、同時に、自分の甥とルントウの子供がかつての自分たちのように仲良くしている姿に希望を見出す・・・というお話。

ここでは、久しぶりに会った友達が変わってしまっていて昔のような関係性でいられない、というあるある話で盛り上がりました。
一方で、子供の頃に持っていた無限の可能性が成長とともに現実に合わせて細い道に収斂していく、というテーマにもスポットがあてられました。
ルントウがつまらない人間になってしまうといったことは、現代でも大人になる過程で誰しも経験することです。

物語の最後には「僕」が子供たちに希望を見出すシーンが印象的に描かれています。
希望というのは個人的なものというイメージで、「道ができる」という表現は腑に落ちないというメンバーがいました。これには、一人一人がそこに向かっていけば道ができる、という革命ののろしを表しているのではないかという意見が出ていました。
ただのノスタルジーもので終わるのではなく、そこにも何かしらのメッセージが含まれているということでしょうか。
「阿Q正伝」のときに出た、まともな主人公の方が読み手に伝わるという意見に通じるものがあるようです。

今回は、医学の道を捨て、文学による啓蒙活動に身をささげた魯迅の緻密な物語描写にふれることができました。
阿Qのような人間になっていないか、無限の可能性を失っていないか、自分を顧みるすばらしい材料だと思います。

あなたは都合のいい理屈で自分をごまかしていませんか?
あなたは今も誰かの英雄として輝いていますか?