2018年6月

2018年6月8日
課題図書:「コインロッカー・ベイビーズ」村上龍
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数か月前、「インザ・ミソスープ」が自由図書で紹介されたこときっかけに、徐々に赤メガネの中に村上龍作品の気配が高まり、そしてその流れで課題図書に選出されたのがこの「コインロッカー・ベイビーズ」。1980年に書かれた村上龍3冊目の著書で、数あるヒット作の中でも代表作として挙げられることの多い作品。元々は上下巻だった500ページ超のボリュームを心配する声もあったが、多くのメンバーが数日で読み終えることができた。

~ともかくドラゴンと言いたい人たち~
今回の参加者11人の中で初めて村上龍作品を読む、いわゆるファーストドラゴン組は5人。グロテスクな描写や暴力シーン、読んでいてハッピーな気分とは程遠いという点でやはり好きにはなれない、苦手という感想もあったが、作品に込められた意図や面白さについては全員が肯定的なスタンスで語ることができた。ちなみにディスカッションの中では「村上龍」を「ドラゴン」に言い換えて、ドラゴン好き(村上龍ファン)、ドラゴン臭(村上龍作品の特徴的文体などのこと)、ファーストドラゴン(初めて村上龍作品を読む行為)、ドラゴン童貞/処女(初めて村上龍作品を読む男性/女性)、男ならドラゴン(くらい読んどけってこと?)などのスラングが連発されることになり、このあたりも村上龍という作家のアイコニックさとドラゴン好きメンバー達の深い愛着が感じられた。本編には一度も「ドラゴン」という単語は出てきていないにも関わらず、異常なほどに「ドラゴン」という言葉が飛び交った課題図書論評となった。

~作品の年齢について~
コインロッカーに象徴される社会的閉塞感や孤独、逆境に抗おうとするキクやハシ(とその他多くの登場人物)が見せる生存本能=破壊衝動は、おそらくある一定の若い世代には何らか強く共感し、共振する部分があり、それがこの作品全体の持つエネルギー(あるメンバー曰く「なんかよくわからないけど面白い!」)として感じられるのかもしれないと思った。またその一方で数名のメンバーはこの作品を当時、高校~大学時代に読んでいて、時代を経て改めて読んでみると「キクやハシよりもニヴァや和代に感情移入できる」、「これは50歳を超えて読む本じゃない」という当時とは違った視点の感想が上がったのが印象的だった。また読み手の年齢の変化と同様に、書き手の年齢という点も論点となり、近年の作品やTVで見る村上龍のトーンと比較すると、やはりこの作品時点でのドラゴンもまだ若く(そりゃそうだ。)、練り切れていない、活かしきれていないと思える部分を指摘する声も上がった。例えば序盤、薬島でアネモネに話しかける女装した痩せた男はハシだったのだろうか?

~やはり傑作か。~
なぜか本作を読まずに、その他多くの村上龍作品を読んできた自分からすると、この「コインロッカー・ベイビーズ」は本来の時系列と逆に、まるで村上龍文学の集大成と感じられるほどに、後の作品に見られる特徴的な要素が含まれていると感じられた。読み飛ばしたくなるようなグロテスクな破壊描写は「オーディション」や「インザミソスープ」、未知の興味を喚起するエキセントリックな性描写は「コックサッカーブルース」「超電導ナイトクラブ」に。纏わりつくようなディテールで描かれる退廃的なディストピア観は「ヒュウガウィルス」「半島を出よ」に。そして本作のダチュラにあたる超破壊的マクガフィン要素の存在と、実際にそれが炸裂する展開は「昭和歌謡大全集」や「共生虫」を思い起こさせた。その他にも作品名を挙げるとキリがないが、ともかくやや粗削りながら村上龍的エッセンスを存分に堪能できる本作が代表作と呼ばれることに全く異論はない。 今まで誰かにファーストドラゴンをすすめるときは迷わず「愛と幻想のファシズム」を挙げていたが、今後は「コインロッカー・ベイビーズ」とどちらにするか迷うことになると思う。


2018年6月29日
課題図書:「白鯨」ハーマン・メルヴィル
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まさに、不測に立ちて無有に遊ぶとはこのことか。
実は「白鯨」は私にとって本命本ではなかった。
しかし選ばれたからには読むしかない。
そして、予想以上に印象に残る一冊となった。

今回は新潮社版の上下冊、135章、本文1,013頁、注釈96頁、まさに超大作。
冒頭、主人公のイシュメールと熱い友情を育むクィークェグの件は面白かった、
船に乗り込む際に現れた謎の男の言葉も、不吉な予感を漂わせる。
きっと何かが起きる、そう皆が期待を胸に船は出航したが…
事件はちっとも起こる気配がない。
それどころか章が進むごとに饒舌になるイシュメールの鯨へ愛(蘊蓄)
エイハブ船長の白鯨に対する執拗な憎しみ、
それらを延々と聞かされる事になろうとは、誰が思ったであろう。
だんだんと気持ちがイライラを通り越し、少しハイになってくる。

これが書かれたのは1851年、ペリーが黒船で日本に開国を迫った頃でもあり、
捕鯨の寄港地として日本を利用しようとしていた、という説もあるそうだ。
この小説にも日本の鎖国について載っていたり、海賊の話や、
異国船同士の海上での挨拶文化、遭難者捜索の協力要請なども描かれている。
話には出てこないが、このころジョン万次郎もまた太平洋を漂流していた時に、
アメリカの捕鯨船に助けられた一人なのだ。
まさに歴史文化、捕鯨史の貴重な資料となる情報が満載なのだ。

エイハブ船長の海の男たるプライドからくる凄まじい狂気に気圧され、
そして人間など歯牙にもかけない圧倒的な鯨の美しさと強さを目の前に、
私たちは想像力を掻き立てられた。
古来、人は何故あんなに大きな鯨に戦いを挑んだのか、
マッコウクジラとダイオウイカの海底で繰り広げられているであろう壮絶な戦い、
白鯨のモデルとなったエセックス号事件についての映画「白鯨との戦い」や、
侍ジャイアンツの漁師の息子、番場蛮の父親(鯨に食い殺される)だったり、
52ヘルツの鯨の存在など(非常に珍しい周波数で鳴く世界でたった一匹の鯨)、
鯨についてここまで思いを巡らせる機会はそうそう無いのではなかろうか。

著者のメルヴィルは、日本でいうところの夏目漱石のように、
アメリカでは誰でもその名を知っており、
本国の人々にとっても、読んでいて結構しんどい本であるとの事だ。

西洋文化の例え話が良くわからず、イマイチ内容が頭に入ってこない、
読んでいるといつの間にか寝落ちしている、
そろそろ読むのを放棄したい、
そんなしんどい気持ちになったら、
最後の3章を読んでみる事をお勧めする…が、
完読した後の解放感はすこぶる爽快である。