2016年6月

2016年6月3日
課題図書:「マレー蘭印紀行」金子光晴
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そろそろ夏休みの計画を立てる時期ですね。旅先はもうお決まりてですか?今回の課題図書は、シンガポール、マレー半島、ジャワ、スマトラと東南アジアを放浪した詩人の紀行文です。旅好きや旅行記好きなメンバーもいる赤メガネの会ですが「ひと癖ある作風に驚いた、戸惑った」という人が多かったようです。

まずは、時代背景。著者が東南アジアを旅したのはおよそ80年前のことでした。戦争が始まる前の昭和初期に、当時の日本人が東南アジアの様子を伺い知ることができた意義は大きい。祖父が出征していた東南アジアの風景を知ることができた気がする、という人も。当時、外国を旅できる日本人はごくわずかでしたし、映像はおろか写真も満足にない時代に、未知なる異国を伝える作品というのは大変貴重だったと想像します。現代の日本語とは異なる独特の文体に苦労した、音読してみた、というメンバーもいました。

詩人ならではの自然描写も印象的でした。ねっとりとした風、濁った水、光、鬱蒼としたジャングル、スコールがやってきそうな東南アジアの田舎の空、人の手が入っていない未開の自然、闇への畏怖。画家ポール・ゴーギャンが南洋の島に求めた野蛮の地はこんな場所だったのでしょうか。旅の情景を生々しいまでの鮮やかさで描き出す言葉遣いは圧巻。旅の情報がない時代に読んだら、どんなに想像を掻き立てられたことでしょう。旅先では普段よりも五感が研げ澄まされますが、その感覚が疑似体験できる旅行記です。

美しい日本語に酔いしれながらも、多くのメンバーが感じた違和感。それは旅行記の醍醐味である「人情」がほとんど描かれていないという点です。著者がその場にいるにもかかわらず、語り口に距離がある。鼓動を消す感じが独特。主観というノイズを排した旅行記。ただカメラを長回ししている映像を見ているようだ。人の描写がことごとく暗い。それで結局、奥様とはどうなったの? ・・・本編のあとの解説を読んで目を見開いたのですが、著者が足掛け5年にも及ぶ海外放浪を決意した理由というのが「奥様の気持ちを取り戻すため」だったのです。当時、三千代夫人には恋人がいました。その三角関係を解消できるのであればと思い立ったものの、旅の中で核心に触れる会話はなかったとのことです。妻との会話がない中で見えた緑、と書かれていたらもう少し感情移入できたのにという意見や、険悪な夫婦の珍道中エピソードが聞きたかったという感想も(笑)。もともと私的な備忘録として書かれた本書。それにもかかわらず夫婦の温度を感じさせないのは、あえてそのように書く理由があったのでしょうか。解説に書かれた旅の事情を知って読んだら、また違う景色が見えてきそうな紀行文でした。でも、せっかく東南アジアを放浪するならば夫婦仲良く旅したいものです。


2016年6月24日
課題図書:「ビラヴド―トニ・モリスン・セレクション」トニ・モリスン

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「そういえば、課題図書で最近アメリカ文学を読んでいなかったね」ということで、
今回選ばれた作家はトニ・モリスン。1993年にアメリカの黒人作家として初めてノーベル賞を受賞、ピュリッツァー賞他多数受賞。メンバーの期待はいやがおうでも高まります。

舞台は1873年、オハイオ州シンシナティ。この頃アメリカではマーク・トウェインが『トム・ソーヤ』を公刊し、グラハム・ベルが電話機を、トマス・エジソンは蓄音機を発明しています。ちなみに日本では1868年に明治維新を迎えたものの、1877年には西南の役が勃発します。

物語は、こんなふうに始まります。「124番街は悪意に満ちていた。赤ん坊の恨みがこもっていた」――124番街にあるこの家には現在、主人公とその娘が住むけれど、義母は亡くなり、2人の息子は13歳になる前に逃げてしまったのだと。だったら、この「赤ん坊」って誰?――といきなり煙にまかれます。やがて奴隷だった女主人公セサの筆舌に尽くしがたい過去、セサが選んだ究極の選択がフラシュバックする記憶の中でほのめかされ、死者と生者、現在と過去が複雑にからまりあう途方もないナラティブ(叙述)の渦に読み手は放り込まれます。

読後の感想は、両極端に分かれました。

「まったく物語に入り込めなかった。課題図書読了まで一週間以上かかるなんて、初めて」「ページを開くたびになぜだが寝てしまう」派がやや優勢、対するは「最初の戸惑いを乗り越えたら、一気に読めた」派。このストーリーに入り込めるか、入り込めないかの境目は、どこにあったのでしょう。それは、アメリカにおける有色人種に対する(そして今も形を変えて続く)想像を絶する理不尽な迫害の歴史や、ときに黒人霊歌を思わせる詩的過ぎる語り口、時系列のシャッフル、そして死霊が登場人物として大きな役割を与えられている、という設定をどうとらえるか、にありました。

荒唐無稽過ぎて受け入れられない、と日本に生きる私たちが思う要素のうちいくつかは、アメリカに生きる有色人種にとっては厳然たる事実なのでしょう。死者が蘇って現世の人と共に暮らす、という死生観も含めて。どこまでなんでもアリなのか。その限界値は自分の人生や読書体験の経験則をやすやすと越えてしまうため、振り回される読書体験であったという点では全員の意見はほぼ一致していました。

ある集団が別の集団に所属する人の人間としての尊厳を奪うことは、それほど遠くない昔にも行われていたし、(残念なことに)今も世界のどこかで起きています。じゃあ、抑圧から解放されたら幸福になるか、といったら必ずしもそうではないことを、この物語から教えられた、とする発言もありました。極限に近い条件の中で生きてきた人がいざ、自由を授かっても必ずしもその自由を謳歌できるわけではない。人生に期待しない、何かを愛しすぎない、と心に誓わなければ生き延びられなかった。自由の身になっても、その諦めの呪縛から自分を解き放ち、希望を持って生きることは並大抵ではできない。この物語に登場する三世代の女性たちはそんなことを、身をもって伝えてくれます。

私たちが知っている事実というのはあくまでも、白人側の価値観と掟に沿った世界観なのかもしれない。強烈な平手打ちさながら、この物語はこのことに眼を開かせてくれた感があります。この課題図書を楽しめなかったみずからを恥じて(!)このあと黒人の登場する文学を意識的に読んでみよう、という新たな読書テーマを見つけたメンバーすらいました。アメリカ文学を語るうえで、この視点は本来、欠かせないものであったのかもしれません。ノーベル文学賞受賞、むべなるかな。トニ・モリソン、重低音の効いた物語の紡ぎ手であることは間違いありません。