2016年8月

2016年8月5日
課題図書:「1984 年」ジョージ・オーウェル
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1949 年に発行された、ディストピア小説として世界的に名高い作品である。

舞台は核戦争後の世界。市民は「 テレスクリーン 」と呼ばれる 装置 によって、その行動を当局に監視されている。 当局は過去に関する記録に限らず個人の記憶をも操作・改竄し、体制に都合の良い世界を作り上げていた。主人公はひょんなきっかけから体制への疑念を抱き、いつしか行動を起こすべく日々を過ごしていた。そんな折、志を同じくする女性と出会い愛を重ねていく。しかしある日、隠れ家に当局の人間が踏み込んできて二人は捕まってしまう。拷問にかけられた二人は、処刑よりも残酷な結末へ引きずり込まれていく。

8 月の晴れた暑い日、時計は 18 時を回っている。
集まったメンバーはいつものとおり、彩り豊かな面々だった。
甘美なディストピアの世界に耽溺する者。
本作の監視世界と現代日本の情報社会を比定し、その現状を嘆く者。
30 年ぶりに本作を読み直し、あらためて現実への警鐘を読み取る者。
人口の 85 %を占めるプロール(下層階級の労働者)に未来への希望を見出す者。
当局の監視をかいくぐって行われる逢瀬に、より強いエロティシズムを感じる者。
残虐な拷問シーンを猫の画像とともに乗り切った本稿の筆者。

その寸評は様々であったが、私たちが共通して議論の俎上に載せたのは「自由」だった。本作で当局が掲げるスローガンのひとつに「自由は隷従である」というものがある。「自由」とはどういうものなのだろうか。

「あなたは今、自由ですか?」

15 年も前のこと、私がまだ大学新入生だった頃、教授が講義の中で前列の学生に声をかけた。私と友人は、教室の後方で目を丸くして顔を見合わせる。学生運動という時代でもないのに、教授は私たちを煽動しようとでもいうのか。しかし果たして、教授の意図は全く別のものであった。

「親元を離れた皆さんは今、自由でしょう。夜中に帰るのも自由。何時に寝るのも自由。髪を染めるのも自由です」

教授は続ける。

「ところが、自由には裏の顔があります。貧乏になる自由、病気になって苦しむ自由、他人を傷つける自由…と、こんな風にも言えてしまうのです。だから、自由主義という言葉には気をつけなければいけないんですね」

「自由」に思いを巡らせたとき、 15 年の追憶がさざ波となって私の足先を心地よく撫でていった。

「自由」は必ずしも、享受する者の幸せにつながるわけではない。

本作では、言葉が統制の手段になっている。日記を書くことすら体制への反逆行為とみなされてしまう。これでは、隷従どころか何の自由もないのではないか。

ここで、あるメンバーがこんな指摘をした。

言葉を奪うということは、発想を奪うということ。本作の市民は周囲の状況にも気づかず、自由を謳歌し、幸せを感じてしまっているのかもしれない。それはどんな拷問よりも恐ろしいことなのではないか。「テレスクリーン」が技術的に可能となった現代、ディストピアはすぐそこまで近づいている。もしかしたら、我々はもうディストピアの住民なのかもしれない。

子供を持つメンバーが興味深い補足をしてくれた。今、鎌倉幕府の成立は 1192 年とは習わないそうだ。最近の研究で、もっと別の成立年代が有力候補として挙げられているらしい。しかし、これがディストピア当局による過去改竄ではない、という証拠はどこにもない。

邪馬台国はどこにあったのか。日本語とヘブライ語は共通の祖先を持つのか。ロマンあふれる歴史上の謎は、得てして監視社会の操作対象になるものであろう。

ここまで言うと、いささかトンデモサスペンスの様相が過ぎるかもしれない。しかしこうした思考訓練は、私たちが何気なく手にしている「自由」が、本当に私たち自身の幸せにつながっているものなのかを考えるきっかけとなる。

「自由」に対する議論は尽きないが、時間は迫り、私たちはひとつの結論を出した。

“もっと、本を読もう。”

ネットリテラシーが叫ばれる昨今ではあるが、仮想世界だけでなく現実世界でも、自分が置かれている状況や取るべき行動は、自分自身で考えなければならない。その拠りどころとなる知識は、本によって得られるものが大きい。

インドの不可触賎民について調べたメンバーが、頼もしい話をしてくれた。カーストの外に置かれた身であっても、読書によって大学を卒業し銀行員になった例があるらしい。

言葉を得るということは、発想を得るということ。

多くの言葉で、広い発想で、私たちは自身を世界を顧みなければならない。

赤メガネの会が存在する意義。自分たちが参加する理由。あらためて、基本に立ち返って考える機会となった。

ディストピア小説が私たちにもたらした希望は、作中に描かれている絶望よりもずっと大きなものにちがいない。

翌日、私は夏休みを利用して母校を訪れた。

自由主義の講義を聴いた 101 号教室、消し忘れた黒板の 2+2=5 。中庭では小学生のグループが何かを話し合っている。オープンキャンパスを利用した自由研究だろうか。

私たちだけでなく、若い世代にももっと本を読んでもらうような働きはできないものか。そんな熱い提言をするメンバーの顔を思い出す。

子どもたちはどんな本と出会い、どんな未来を拓いていくのだろう。

8 月の晴れた暑い日、時計は 13 時を打っている。

あなたは今、自由だろうか。

※本稿は、特定の価値観や考えを強要する意図をもって書かれたものではありません。


2016年8月26日
課題図書:「てんやわんや」獅子文六
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文学界の焼肉、フレンチ、ステーキにあたる作品が続いていたので、
久しぶりに佃煮と白ご飯的な本を。
今回の課題図書に選ばれたのは、獅子文六の手による「てんやわんや」。
メンバーの誰もがスッキリ楽しく咀嚼することが出来ました。

本作品が毎日新聞で連載されたのは、昭和23年11月から翌年の4月までのおよそ半年。
文中に「終戦後4ヶ月も経って」と書いてあることから、
描かれているのは昭和21年11月からの1年間。
そして我らが主人公は、『犬丸順吉』 29歳 無職。
メンバー全員が、テンポが良くて楽しく読めたと口を揃えるのは、
彼が周囲の人間に流されて行く様が、コミカルだったからに他なりません。
もしかして、これはコメディ?!
渋いところで「てんぷく小劇場」になぞらえていたメンバーもいましたし、
名前を貰った漫才師を思い出していた人も。(もはや知らん人多いだろーなー)

さてメンバーの殆どがテンポや文体の軽やかさと、
戦後が舞台でありながらの明るさが良かった点としてあげてました。
ですが女性陣はとにかく面白かったと、手放しで誉めそやしていたのに対し、
おしなべて男性陣は語尾が明瞭ではありません。
「良かったんだけどねぇ…」と少々煮え切らない。
どうやら、めいめいが己を投影していたのではないでしょか。

むむ、確かに。
自覚もなく傲慢な上司やら、むやみやたらと押しの強い後輩の女の子やらに振り回される。
でも田舎に行くと、ささやかな自尊心が湧き出てくる。
こんなだらしねー奴やだー、って思えば思うほど、あー、これオレじゃねーか、
ってなってしまいます。(あ、コレはボクだけかも知れないけど)

さてここからは個人的な推測なのですが、敗戦の傷も癒えないまだ占領下の日本で、
獅子文六は怒っていたといいます。「何に」と、一口には言えないうっ積した憤りでしょう。
そして複雑なことに、コメディをもって世の中を明るくしようとします。
当然のごとく、様々な皮肉や風刺を織り込んで。
でも、そのアイロニーは、年月と共に毒性を失って、
平成の日本では、本来の毒が何だったのか解らない。それはそうですよね。
最大の国難だった戦後の混乱や、怨念など私たちには想像もつきません。
単に『従順な犬』からの脱却を願いながらも、
果たせない主人公への歯痒さとしか感じられないのです。

とはいえ、読者の心配をよそに、ドッグさんこと主人公は、
避難先の四国で珍妙な仲間と一緒に、奇妙な風習や行事を、楽しみます。
闘牛や選挙に求心運動、そして都会からの旅人に対する過剰なもてなし。
このもてなしで出会う手弱女(たおやめ)に対する恋慕。

そして、間も無く起きる昭和南海大地震で、上司で且つ主人たる社長から預かった
『重要書類』の中身が、明らかになります。
これが果たして重要なのか否かで、メンバーの意見も分かれました。
ある女性メンバーは、きっと大切なんだろうと言います。
しかし、ある男性は手元にあって初めて重要なのでこれには意味はない、と。
なぜならボクは手放さない!実際手放してない!と力説していました。
中身を言わないとなんのこっちゃら解りませんよね。気になったら読んでみてください。
全員が共感したとおりテンポの良さは抜群です。すぐに読めると思います。